

昨今の経済状況下、美術館などの文化施設では様々な経済的条件が課せられ、本来の目的に沿った活動が難しくなってきています。地方の小規模な美術館が10周年を迎え、さらにこれから継続してゆく上で、あらためて美術館とは何なのか、そしてどうあるべきなのかという基本的なテーマを、第1部・第2部に分け、圏域住民とともに討論しました。録音された内容を文章としてリアス・アーク美術館がまとめたものです。
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第1部 平成16年10月2日(土)
第2部 平成16年10月3日(日) |
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リアス・アーク美術館ハイビジョンギャラリー |
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無料 |
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約160名(両日合わせて・取材記者含む) |
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2日間に渡る2部構成 |
第1部
「美術館の存在価値、存在意義とは。――未来をどう考えるか」
◆基調提案1「昨今の美術館事情・全国的、世界的視点から。」
高山 登 氏 宮城教育大学美術科教授(現:東京芸術大学教授)
◆基調提案2 「美術教育の重要性と今日的課題。美術館との付き合いかた。」
新妻健悦 氏 アトリエ・コパン造形教育研究所主宰
◆パネルディスカッション「未来を見つめ、今するべきこと、するべきでないこととは」
パネラー=高山 登/新妻健悦/常山俊明(作家・気仙沼市在住)
コーディネーター 山内宏泰(リアス・アーク美術館主任学芸員)
第2部
「リアス・アーク美術館の可能性を探る。――どこへ向かうべきか」
◆基調提案1 「観光と美術館・博物館の関わり、世界の事例から」
宮原育子氏 宮城大学事業構想学部助教授
◆基調提案U 「芸術文化と民俗・食の視点から、館と地域の未来を探る」
結城登美雄 氏 民俗学研究家
◆パネルディスカッション「実行と実現に向けて、何をなすべきか」
パネラー=宮原育子/結城登美雄/菅原昭彦(スローフード気仙沼代表)/川島秀一(国立民俗学博物館共同研究員(現:リアス・アーク美術館学芸係長))
コーディネーター 昆野武裕(リアス・アーク美術館次長兼副館長)
平成16年10月2日 10周年記念フォーラム 第1部 記録
フォーラム開催にあたって 館長:千葉紀雄
リアス・アーク美術館が開館十周年を迎え、記念展、フォーラムにも多くの方々に足を運んでいただいております。
開館以来地域の皆様にはご支援ご協力を頂き、深く感謝いたしております。この10年間、様々な紆余曲折がありました。財源縮減、事業の縮小、このままの形で運営すべきかどうかといった多くの課題を抱えております。お陰様で、6月末に、県から広域行政事務組合に施設が移管され、名実ともに、圏域民の財産になった節目の年でもあります。昨今の経済状況の中、美術館を運営してゆくということには相当の意義を見出してゆかなければなりません。そう言う観点からこの 10年間を振り返ってみると、当地域、あるいはこの時代に対して当館は本当に存在価値を示すことができていたのかどうか。市町村合併があり、広域の編成が変化しようとする中にあって、今後もこれまでのように「価値」を追究することが出来るのか、美術館として生き残れるのかということも真摯に考えてゆかなければならないでしょう。「美術館」を維持しながら、利活用の方法をさらに深めたい。疑問、課題もありますが、内部で研究しながら、同時に利用者であり、運営主である地域の皆様のご意見をより反映できるようこのフォーラムを企画いたした次第です。2日間に渡って諸課題とどう向き合うべきか、専門家による基調提案をもとに皆さんと考えてゆきたいと思っております。
第1部「美術館の存在価値、存在意義とは。未来をどう考えるか」
【基調提案】
昨今の美術館事情・全国的、世界的視点から(高山 登)
昨今の美術館事情は一般にそれほど知られていないかもしれない。報道で有名になるのは、高価な絵を購入したという例や、展覧会に記録的な観客数が集まったなど、どちらかというと、おめでたい報道で、そんなに潤沢な資金やアートに対する感心が高いのかと驚くようなニュースになっており、この国の芸術文化に対する理解度が決して低くはないのだというイメージをマスコミが作り出しているといった観がある。現実にはバブル経済に沸いた一時の贅沢な時代が過ぎ、その後、経済的な面から公立美術館は「存続」できるかという飛躍した論理が展開されている。そもそも余っている資金があるから芸術にでも、といった考えが根底にあったのだろう。しかし本質的な意味において美術館がどういう意義を持って我々にとって必要なものであったのかという、最も芯にある問題が置き去りにされてはいないか。現在、日本各地に美術館は存在するが、自らの必要性で生まれたというよりも、「御上」から頂いたという感じのまま時が流れてしまった。ここで日本における博物館の歴史を追ってみることにする。
博物館は美術館・動物園・植物園などを総じてミュージアムと呼ばれ、その形が入ったのが明治時代である。西洋文化に習えということで、学校教育法の定めるところによって石や頭蓋骨、蝶、などが置かれる標本室が整備された。その後学校外の地域・行政が博物館をつくるようになったことで、学校教育から社会教育、生涯学習施設へと役目が移行し現在ではそういった標本室は学校からほぼ姿を消している。そういう流れの中で、国立から、県、市、町レベルまで美術館・博物館が作られるようになった。この流れはバブル期に本来の意味を見失い、「乱立」を繰り返し、その後、バブル崩壊と同時に経済的な理由からいっきに閉館、無期休館という事態を生み出している。文化行政面で使っていた予算を見直そうということになり、中でも産業に結びつきの薄い美術館は目の敵にされるようになった。贅沢が生み出した施設は、節約の対象としてはじめに切り捨てられるということなのである。
そもそも日本人はバブル以前から芸術文化に対するお金の使い方を理解していなかった。文化でお酒が飲めるわけではないし、太るわけではないし、芸術のためにお金を使っても何か豊かになったような気がしないというわけだ。文化芸術への投資が生活を豊かにしたという実感がないまま、現在のような経済問題と混同されてしまった。
きょう出席している方は、美術館に感心があるという人が大半だと思うが、一般的に美術館がどういうものか、特別な関心のない人にとっては未知の場所である。私がある美術館に行った際、タクシーの運転手に、美術館についての質問をしたのだが、客を降ろす場所であって、館内は見たことがないというのが現実のようだ。
利用者の性別から言うと女性と男性の割合では、女性が圧倒的に多く、男性の利用が非常に少ない。美術館までは夫婦でやって来るが、旦那さんが駐車場で待っていて奥さんだけが展覧会を見てくるというような例も少なくない。実際には男性が文化行政の重要な決定をしているというのに、これは大きな問題である。
一般的な関心度を養成していくための重要な機能は、やはり学校での基礎的な芸術、文化教育である。当たり前のこととして博物館を利用する意識ベースが日本の場合支えられていない。昨今、文部科学省は学校教育の中に美術館、博物館をもっと利用しなさいと指導しているが、学校現場ではなかなか現実として難しく、利用されない状況にある。学校が行うべきは集団で博物館を利用することだけではなく、生徒一人一人が自分の足で博物館を利用するだけの興味、関心を持たせてやることなのだが、指導する立場の先生自身が実は博物館を利用していないという現実が横たわっている。
こういった現実をよそに、全国では、潰すか、潰さないかという選択まで迫られている美術館が少なくない。しかし別角度から見れば、初めて美術館の意義や存在価値、未来という問題が表面化し、議論され始めていることは大きな前進と捉えることができる。どうして最初から問わなかったのか。本来ならばつくる前に解決されていなければならなかったのだが。
これまでは行政が計画性や未来に対する責任を考えないままただつくってきた。ある時は湯水のごとく金を使い、いざ困ると潰してしまえ、と勝手なことを言っている。これに対する考え方も様々な方面から様々な意見が出され喧喧諤諤とやっている。現実に、ある地方では法人化し、館長は民間から登用。民間の主導のもと、利益の上がる美術行政・美術指揮を学んでいる。もちろん経済を度外視することはできないが、大切なことを逆に度外視してしまわないようにしなければならない。
明治以降、日本は西洋文化の物まねをしてきた。国内には西洋を手本にした美術館・博物館が造られた。国外から視察団が来る。そうすると、日本の美術館はどこにあるのか、という批判を受ける。ほとんど西洋の美術館の物まねだから、西洋人が見てもしょうがない。日本の美術はどこにいったと。これも問題になり、文部科学省が指導要領の中に日本の文化を守りなさいと働きかける。
我々は外の刺激の中で近代化してきたが、我々自身が自分たちのアイデンティティーをどう育みたいか、はっきりした考えを見失い、表面的な西洋の物まね文化を形成してきてしまった。そして最大の問題は、教育の中で、我々の日常生活において美術館・博物館がどういった役目をして、どういう意味を持つものなのか考えることの無いまま現在まで来てしまっていることである。
日本の動物園では、珍しいものだけを見せ、また珍しいものをみる場所だと思いこんでいる。最近は多少変わってきているが、ヨーロッパ・米国動物園に行くと、園の入口で電工掲示板によって人間が生まれる数が毎日カウントされている。同時に地球上から滅びている生物の数が静かにカウントされている。ゲートをくぐって最初に目にするものはゾウの死体。日本人なら怒ってしまう光景だが、同じ地球に暮らす生物として、地球というものをどう考えるかということが動物園の入口で問われている。そこで考えてから、動物とはどういうもの、人間とどういう関係にあるかを学んでゆくのである。ただ珍しいものを見て、からかって遊ぶという場所ではない。
日本ではそういう意識が足らない。基本的にミュージアムをつくる姿勢が間違っているのではないか。美術に対しても同様で滅多に見られない珍しいものの「実物」を見た、ということで満足するような一般的感覚がこれまでの美術館を支配してきたのではないだろうか。
現在、様々な機会に芸術文化に関する議論が展開されている。中心になる問題はたいていの場合「お金」である。そもそも博物館などについての議論が始まったきっかけが、昨今の経済不振であるから、どうしても文化行政に割かれる予算の見なおし、つまり予算の縮小、あるいは採算のとれる施設化の推進といった話題が中心となっている。お金が無ければやめてしまうという発想もある。日本はそこが弱いところで、結局お金に問題が集中する。
行政では福祉のほうが大事になるから文化は後回しという計算になってしまうが、私の考えから言えば、確かに肉体の問題としての福祉も大事だが、精神的な福祉の点で文化行政は重要な役割を担っている。日本ではあまり芸術文化が精神的な福祉であるという判断ができておらず、一般の生活とは無関係なものという扱いをされている。目の前にある経済的な問題だけに執着しているが、なぜ人間が芸術を大切にしてきたのか、それが全然問われないまま博物館、美術館の存在価値を判断してしまうことは非常に危険な考えである。
このままいくと、日本の場合、経済的な面だけで多数決で決めてしまう。文化的・芸術的な価値は、個人が決めるべきもので、多数決の論理を持ち込むべきものではない。どれだけ多様であるか、どれだけ可能性があるのか、そういう問題である。こうした基本的な問題を認識するまでに至っていない中で、美術館の問題を扱ってしまうのは、非常に残念でならない。それでも議論が進んでいくのもつらいところ。
この美術館がつくられた当時の記録を見ると、目的、住民との関係、将来の計画、など重要なコンセプトが見えないまま出発している。百年後を考えずにつくるのはよくあるケースで、10年経過した時に、右往左往する。もう少し、日本が大人にならなければいけない。ヨーロッパから見れば、子どもがやっている遊びにしか見えない。
アメリカ留学中、メトロポリタン美術館で学芸員と話した。日本からメトロポリタン美術館に来る観光客は、こんなにあると何を見て良いのか、何が良いのか分からない。1番良い作品を教えて欲しいというらしい。学芸員はそういうことをしたことがなく、困惑する。良いものを見せるためのではなく、人間がつくった過去・現在と、いろんな地域の人が考えてきたことをなるべく多くの人に資料を提供する。考える材料を提供しているのであって、良いものだけを見せようとしているのではないと彼は言う。
つくる責任、見せる責任、見る責任。それぞれ一人一人に責任がある、日本ではどのような美術教育をしているのかと問われる。日本ではしていない。そんなことで大丈夫かと問われる。日本人はそういう意味でまだ子どもだと指摘される悲しい現実がある。
私自身作家であり、作品を美術館やギャラリーで発表している。ヨーロッパ、米国などいろいろな国でも発表するが、諸外国では芸術や文化に対する好奇心が旺盛で、作家に対しても直接感想を語る。町で展覧会を開くと地域住民がやってくる。気仙沼に置き換えれば、一般の市民が来て、お茶を飲みながら鑑賞する。専門家ではないが文化的なことに対する好奇心、疑問、感じ方を一人一人がもっている。作品を介してコミュニケーションがきちんと成立する。日本の場合はそうではない。好きか嫌いかで終わってしまう。どこが好きで、面白いのか、面白くないのか話し合うことをしない。国に責任があったり、行政の在り方に問題があったり、市民の趣味が増えたということだけでなく、もう一度一人ひとりが人間として生きる上で大切なものが美術、芸術によって語られていることを知り、考えて欲しい。
芸術文化は、見て感じて作り出していく。想像と創造の使い分けも出来ない現代人。このままでは、自分で見て感じ、表現することができなくなってしまう。見る場所が欲しいとつくられた美術館だが、では何を見たいのか、あるいは何を見るべきなのか。一人一人の人生に問いかけが出来るシステムとして美術館を受け止めているかというとそうではない。
感じること、受け止めること、日本の場合、見えないコミュニケーションは難しいようだ。美術館の存在価値・意義や未来を考えるとき、日本人はまずコミュニケーションの練習から始めなければならない。
ある人物がこんなことを言っていた。「文化は異民族や国家間の和解と融和のために働くことが重要である。文化は国や国の風格と安全を守るためにある。文化は正しい需要消費への貢献を通じ、本当の意味での日本再生のカギを握る」。最も身近なところで、文化が観光資源として経済面でも貢献するよう期待されている。これが最近のキーワード。
韓国で百済の展覧会が開催されたとき、住民が大規模なボランティア運動を展開した。町を歩くと、百済のにおいや面影が今でも色濃く残っていることに気づく。住民は町全体が過去と現在をつなぐ重要な「文化遺産」であることに誇りを持って生活している。小さな都市だがアジアを中心にした国際的な展覧会をやろうということで、市民が立ち上がり実現したのが6年前。今も続いている。
日本は文化面でアジア諸国の中でも後れをとっている。何をしようか目的が見えていないからだ。お金のことばかりを気にして何をしたいのかが見えてこない。日本を考える際、アジア全体を視野に入れた文化を考えなければいけないが、日本人にはそういう視点が弱い。
現代日本人の一般的趣向はディズニーランドに侵されている。子どもたちの本はディズニー中心で、「かちかちやま」の話はわからない。
そんな中で日本人は今、ヨーロッパからもアジアからも、日本の文化について問われているのに、日本人はピンと来ていない。自分たちがアジア人であることも忘れている。世界では日本=ユーロアメリカと呼ばれてしまっている。
以前、宮城県の美術館でも開催された展覧会で、「退廃芸術」展という企画があった。かつてヒトラーが自分の好みに反する芸術家の作品を集め、開催した展覧会を再現したものである。現在では高い評価を得ている当時の前衛芸術家の作品が大半を占めるものであった。ナチスが行った文化的迫害は人類にとって最も恥じるべき歴史といえる。文化が国によって操られるようになったら、大変なことになる。他人事ではなくこの国の未来をつくる上で、日本人一人一人が考えなければならない重要な問題である。
最近では日本でも国立近代美術館などに戦争画が並ぶようになったが、未だに全開していない。戦時中の国がとった国策の中で、国益に反すると判断された美術家には絵の具を与えなかった。反抗した人たちは阻害され、従った人たちは国のため戦争を肯定する絵を描いた。
表現の自由と責任がきちんと考えられ、保証されるということの大切さ、意味をあらためて再認識し未来に対し、なにを伝えてゆくべきか。この機会にしっかりと考えていただければと思う。
以上
【基調提案】
美術教育の重要性と今日的課題 美術館との付き合いかた( 新妻健悦)
私は子どもを通して見えてくる美術について話していきたい。これまで30年、子どもたちに絵を教えている。民間のため、シビアな問題として子どもたちを集めるだけの魅力が必要である。面白くなければ、殺し文句として「やめるぞ」と言われる。彼らは面白さを期待してくるわけだが、その面白さの質が問題である。いろいろあるが、やはり人間の本能的な好奇心あるいは、探求心に訴えかけるものを面白いと判断しているようである。だから、一回やったことはもういらない。毎回新しい刺激を求めていて、それを供給していかなければならない。
一般に、これは教育の中でとかく誤解されていることだと思うが、子どもたちがつくったり、描いたりする行為をすぐさま表現ととらえてしまうことには問題がある。
たしかに、広義では表現という言い方はできるが、彼らが夢中になっているとき、それを表現と自覚していないことは珍しいことではない。ただひたすらのめり込んでいる、その瞬間に起きていることは純粋に行為そのものであって表現と一言で言えるものではない。
教室にいると、一人の人間を二つの側面で見なければならない。個的存在としての人間と社会的存在としての人間。一人の人間の中に2つの側面があって、教育の中では多くの場合社会的な存在を養成しがちだ。社会にとって有益な人間になるように家庭でしつけしたり、学校でいろんなことを教えたりする。
ところが、夢中になっている子どもたちを見ていると、社会的人間を忘れている。いつのまにか誰かにほめられたい、見て欲しい気持ちが消えている瞬間がある。一人の人間の中に、揺れがおきている。
ところが、社会、教育の中に立ちかえった瞬間に、急にそれが色あせたものになってしまう。それまで夢中になっていた行為が、不用意な社会的言葉によってフッと、「何をやっていたのだろう」という気持ちにかき消されてしまう。
絵が上手く、幼い時から社会的なスタンスでものを考えられ、ほめられることを優先し、伝わることに喜びを感じる子供がいる。対照的に、作品をみると行為そのもので、見た瞬間、なにを伝えようとしているのか理解できない絵を描く子供もいる。子どもはつくったものを理解されないと、まごつく。大人は子供を気遣い、言葉で誘導し、無理にでもなにかを描いたことにしてしまう。たいていの人は美術館に入って理解できない作品を目にすると、早く自分を納得させたいと考え、「これはなにを表現しているのですか」という質問を発する。自己防衛心がそうさせるのである。人間は理解できないものに直面すると不安になる。その不安を取り除くため、自分に認識可能な情報へと思考をコントロールし、わかり易い答えを導き出すのである。
社会性の薄い幼児の場合、本能をくすぐることによって、ものを描写したり、描いたりする。何かを表したい気持ちもあるのだが、観察していると、白い紙が変わり、色が混じり合う変化に好奇心・探求心がどんどん膨らんでそこに魅力を感じていることが分かってくる。つまり、ものを作ること自体に充分な喜びを感じることができているのである。ところが、一定の年齢に達し、周囲からの言葉や社会性が絶対的な価値観のように思えてくると、他人に伝わらない行為は無駄で無能なことに思えてくる。自分は要領よく説明することが出来ない、能力がないと感じるようになり絵を描かなくなる。将来的には美術館に足を向けないことにもつながってしまっている。
最初の美術との出会いで、個人的側面を支えてやることができなければ社会性によって不用視される個人的好奇心や探求心はやがて枯れてしまう。それが美術教育の現実と理想の溝をどんどん深めてしまっている。
今上げたような自己防衛的な本能と探求心・好奇心を人間にとって大切な行為として見ていかないと、美術に対する興味が再生しない。
東京近くの美術館のようなところでワークショップを手伝って、はたと気が付いたという人の話。表現とかではなく、人間は物作りの動作をする生き物、物作りに目覚めるといろいろなことする。その時に大切なのは「達成感」であると話していた。今教育に欠けているのは大きな達成感。なんでも買えば手に入る。
高山さんもおっしゃっていたが、日本人は美術品を見ても、コメントを言えない。確かに最近は学校教育の中でも制作と鑑賞ということで、鑑賞にもだいぶ力を入れている。ただ、注意しなければならないのは、西洋の文化が正解のようなところがあり、字面だけをおうようなことになりがちである。制作を通して鑑賞をしないと本当の意味での鑑賞にはならない。しかし、学校では制作の時間がどんどん減っている。
子どもたちが楽しくやっていると、父親は「そんなことやって何になる」という。我々のアトリエも美術館で定期的な展覧会をする。渋々親子で美術館に出かけるうちに、美術館の異空間にお父さんが親しんでゆく。
リアス・アーク美術館でも子供の展覧会を行っているが、子どもたちが描いた作品には、気仙沼の地域性が表現されている。子どもの作品を通して大人がその地域を知るということは、意外に大きい美術館の役割だ。
これまで周りの人に伝わる表現は当たり前のように評価されてきたが、もう一つ、自分自身に伝えていこうとする、確認する表現もこれからは大切してゆかなければならない。
人間をもう一度見直す必要がある。大人が作り出した芸術だけでなく、新しく子どもを発見する。より生物的な人間としての視点をあらたに持って欲しい。
義務教育の現場ではしつけ的で非常に固い美術が行われている。好奇心、探求心が抜けてしまう。ものを作る面白さを「表現」という言葉でくくってしまわずに、自分自身に真摯になり、正直になる。自分に合うようにいろんなことを知的に考える。そうすることで他人と同じことはしなくなる。自分を表現できるようになる。そういう考えを持って子供たちを支援していかないといけない。
将来、子どもたちが美術館に足を運ぶ保証はない。やはり、子どもたちを大切にしていかないと、美術館の将来はない。子どもたちの好奇心・探求心を単なる遊びではなく人間にとって不可欠な行為としてしっかりフォローしてあげる。そういう積み重ねが必ず未来に繋がってゆく。
教育の目的は個人の自由を保障してあげること。自由を獲得させるために教育がある。知識や知恵によって自由は獲得するものである。美術館では人類が築き上げてきた生きるための知識や知恵を得ることができる。いろんな作品見ることで、それ以上の大きい自由を獲得することにつながってくる。自由は簡単に手にはいるものではない。もちろん与えられるものでもない。
【パネルディスカッション】
「未来を見つめ、いまするべきこと、するべきでないこととは」
山内:美術館の存在が切迫した状況にあるという意識は以前から持ちつづけている。何とかしたいと思いつつ様々な思考錯誤を繰り返し10年が経過した。美術館、学芸員、作家、教育者、美術に関係する全ての立場の人間が未来について真剣に取り組んで行かなければならない時期にきている。今、とにかく力を合わせて何とかしていかなければならない。基調提案を基にしながら、改めて未来をみつめ、すべきこととすべきでないことという切り口で話しを進めていきたい。
10周年記念展について説明させて欲しい。平成16年度、当館施設は県からの譲渡により広域事務組合に移管された。これまでは県の施設であったため、施設メンテナンスも県が実施してきたが、同組合に移管されたことで、今後は全て組合でやっていかなければならない。それに際してどうやってこの美術館を支えていくべきか、様々なところで議論されてきた。こうした状況下の10周年記念企画である。今美術館でするべきことを考えた。記念展としてネームバリューのある作家の大きな展覧会を開催することが一般的であるが、当館ではそんなことを考えられないリアルな情勢がある。記念事業に充てられる予算には限りがある。
当館が10年の間やってきたこと、それは作家との誠実なつきあい。作家と分かり合い、共通の信念を共有できたからこそ現在があるのだ、と考えている。
この記念展を開催するために10年間お付き合いいただいた作家に作品の出品を依頼した。経済的に厳しい中、極端な言い方をしてしまえば「10周年のお祝い」として作品を一点、無償で出品していただけないかという内容の手紙を送ったのである。48人の作家がそれに応えてくれた。作家に支えられた美術館なのだということをあらためて実感した。美術館に対する手紙も頂き、今後を考えてもいただいた。手紙は全て記念展の図録に納めてある。
現在、美術館・博物館のような施設には、観光施設としての機能を充実させ、福利を地域に還元して欲しいという要望が強くなっている。本来、博物館・美術館は娯楽と教養を提供する場という定義をされているが、娯楽施設としての利用価値を高めて欲しいということ。これまでの固い、暗いイメージを改善し、親しみやすく、明るく、入りやすい雰囲気をつくって欲しいという。公立美術館を維持してゆくために必要な事業予算は全国の調査結果から見ても収入の約8倍。予算に見合う収入があるのは全国で一割。そんな中、求められるのは独立採算性の運営、経営をすること。今までのようにただ作品を見るだけではなく、利用者が積極的に参加し、身体を動かしたり、つくったりできる、いわゆるアミューズメントパークのような活動をして欲しいという要望も少なくない。
確かにこれらの要望はどれも改善すべき課題ではある。しかし一方で闇雲に実践していいものなのかという面もある。間違った要求ではないが、本来、美術館博物館が持つ重要な意味を度外視してしまってはならない。遊園地のような行楽施設ではないのだということをあらためて考えて欲しい。まず、常山さんから意見を聞かせていただきたい。
常山:この美術館の一利用者。職業は鮮魚仲買。美術もしているが職能とは意識しておらず、美術そのものに対して自分の意志、価値観を見いだして20数年継続。その中で、美術館と関わっていて、自分にとっては必要な場所。地域社会の中での美術館の役割も考えている。この10年、勉強させてもらった場である。故に今日の美術館を取り巻く危機的な状況は非常に身近な問題で、社会、地域にとっても重大な危機だと思う。
人々は、豊かなとき、裕福なときは、観光、美術、音楽を楽しみ、それを生活の中で豊かさという位置づけをする。この美術館に対しても子どもたちを日曜には連れて行く場所という意識を10年前は持っていたと思う。
美術館ができた当時、気仙沼には喫茶店、ライブハウスなどもあって経営も成り立っていた。しかし今、面白かった喫茶店や商店はどんどん消え、大型店とコンビニが増えた。コンビニの軒先に座ってメールを送る子供の姿を目にすると、それが今の若い子のステイタスなのかと思う。見ていて好感の持てる光景とは言えない。20年後、何の楽しみもない大人になりはしないかと不安な気持にさせられる。一番刺激を取り入れる時期を、何もないまま通り過ぎて、つまらない中年にならないで欲しい。物質的な豊かさの半面、文化や芸術といった知的財産に対しての価値観は、親も含め価値として受け止められていないのでは。社会全体が子供にものを考えさせない、ものを考えなくてもよい環境を与えてしまっている。よけいなことを考えると、よけいな子とすると社会の流れの中で、みんなと同じように一律に生きていかなければならないのではないかという危機感が、子供の頃から摺り込まれてしまっているのではないか。
歴史上、博物館がこの世に出現した背景は、必ずしも文化的に善良な状況ではなかったはず。戦争では略奪や破壊から逃れるため絵が隠され、しかし発見され砂煙の中、絵画が運ばれている映像はセンセーショナルだった。時代と美術は密接に関わってきたと思う。
美術品は文化や社会の危機に対して何かを誰かに伝え続けてきた。現在の美術館に与えられた指名として、これまで同様に何かを伝えてゆかなければならない。今日のように美術館の存在維持が困難とされる風潮の中、なおさらに、この使命を遂行しなければならないのだと思う。何とかして「つくらない人」には作ってもらい、「見ない人」には見てもらいたい。
新妻さんが教育は社会で役立つような人間を育てていると話したが、私の場合も職能を意識した技術ではないから、美術は社会生活を営む上では不要なものという社会的認識にさらされる。本来、美術は情操教育の面で重要な役割を果たすはず。今の世だからこそ美術館にはより積極的に、啓蒙したり伝えたりする役割を果たしていって欲しい。美術なんてつまらないという人にも足を運んでもらえるようさらに努力されることを期待している。
山内:常山さんには地元で活動する美術家、住民として今後も様々なご意見をいただきたいと思う。
高山:地域と美術館の関係がようやく問われるようになってきた観がある。望ましい状況からではないにしろ、西洋の物まねのごとく作り始めた博物館のあり方が現代になって初めて意識されるようになったことは大きな前進である。
戦後大きい美術館は、西洋の手法をそのまま取り入れて整備してきたが、そのあとにつくられたた小規模の美術館は、良くも悪くも地方の手作りでつくってきたもの。リアス・アーク美術館もその代表だが、抱えていかなければならない問題がある。
現在、美術教育、芸術教育は日本の教育の中で端の方に追いやられてしまっている。義務教育の枠から美術、芸術教育が少しずつ除外されている。そのような状況で、一般認識からすれば、「美術は何かの役に立つのですか」という話になってしまう。結果、美術を扱うだけで無駄にお金のかかる施設はいらないということになりかねない。そのことを基本的に話し合い、意識を育てることを市民全体で考えてゆかなければならない。
日本には、自分たちで作っていくという感覚の美術館はあまりない。外国では、地方の美術館の館長の仕事というと、地域からの資金集めが主になる。商店街や企業などから常に寄付金を募っているのが館長の役目。その際、住民の耳を傾けさせるためには、館長の文化に対する深い理解があった上での住民との対話が重要である。また、展覧会を行う際には住民はいつでも作家と直接話が出来るという状況をつくっている。
日本の場合、スポンサーが付くと展覧会でさえ「もうけ主義」になってしまう。「見せてやっているのだ」という感覚も否定できない。こういった階級社会的発想は明治時代の感覚で、これが崩れないと、なかなか難しいと思う。本当の意味で企業が社会に対する還元、貢献という感覚で資金提供を行わなければ。
ニューヨークの美術館では、ワークショップにはお年寄りから子どもまで毎日多くの人が来る。レジデンスで作家が借りているアトリエを訪ね、創作活動の様子を見る。
ある日、小学校の校長から電話がかかってくる。「きてほしい」とのことで。生徒が高山を連れてこいと校長に申し出たらしい。枕木の作品を学校に置いて欲しいという。現代美術は分からないと言われる日本では考えられないことである。アトリエでは、小学生から直接善し悪しの意見をされる。「幻想的」「自分たちの未来を表している」といった感想をもらった。
基本的な部分が違っている。美術に感心のある人はそれぞれ意識を持っていると思うが、もっと底辺で文化に対する感覚を支える必要がある。芸術、文化の前では大人と子どもを区別する必要はない。
小学生が絵の前に座っている。生まれた場所や環境で自分だけの感想を抱く。それぞれが自分の文化を持っている。日本では国家、社会による画一的価値観が、どこで生まれてもみんな同じ答えを強要してしまう。自分が生まれた場所の地方性に誇りを持てない。だからこそ地方からこういう問題に取り組んでいかなくては、いつまでたっても芽は出てこない。気仙沼のような場所からしっかり取り組まないといけない。
山内:経済的なことに関して、先ほどの新妻さんの話で「面白くなければやめてやる」という殺し文句の話が出たが、我々のような公立美術館の場合、税金でやっているから経済観念が鈍いという言い方をされる。しかし税金でやっているから金のありがたみが分からないだろうという発想がなぜ出てくるのか、不思議である。我々も税金払っている。民間の立場から、美術館の抱えている問題をどう考えるか、ご意見をいただきたい。
新妻:30年やっているがあっという間。最初の10年は取材の意味で様々なことを実践した。民間という意識もあり、やはり成果を見せていかなければならなかった。リアス・アーク美術館もまだ開館して10年。研究の時期であると思う。利用者数を増やす方法として考えられることをいくつか述べる。
子どものことを取り上げる美術館は少ない。子どもの展覧会は、動員数が多い。子どもの作品を通して大人が美術館に足を運ぶようになることは有効な普及活動である。
娯楽施設としては、特にリアス・アーク美術館の場合、建築家が工夫を凝らして設計している点を有効に利用し、館内外を効果的に活用することも考えられる。高台にあるこのロケーションを利用しても面白い。
若いころ、チーズケーキの美味しい美術館によく通った。ロビーには革製のソファーがあり、そこに身体を沈めると日常とは違った空間に浸ることが出来た。本来的な目的ではないかもしれないがきっかけとしてそういった施設の特殊性を活かし、利用者を獲得する方法も考えられるだろう。
リアス・アーク美術館は、内容が意欲的で10年間よくやってきたと常々感心している。山内学芸員を中心に何人分の仕事をしてきたか。地方の小規模美術館としては非常に珍しい。さらに発展していって欲しい。
やはり、美術館の将来を考えると、子どもを大切にしなければならない。美術館を利用して作品を制作するということもあるが、学校には図工室があり、すごい設備があって驚く。実際うまく活用できていないようだが、もっと先生が意欲的に研究し、学校の授業を充実させて欲しい。学校教員だけで出来なければ、地域の人たちにもそういう分野に明るい人がいるはず。そんな人との交流ももっと模索されていい。美術館はその選択肢の一つである。
今、美術館と連携した教育などといわれているが、美術館に預ければいいという勘違いをする人もいる。せっかくの施設だから、どんどん活用するべきだが、双方の理解に基づいた協力ができれば良いと思う。
山内:子どもをキーワードに話して頂いた。近年、全国的に子供を対象にした展覧会は増えている。マンガ、アニメ、映画を題材に莫大な費用を投じ、入館者もそうとうなものになるらしい。美術館の学会的な組織・全国美術館会議で、当館のような小規模館で構成する小規模館研究部会でもこの手の展覧会の話題が出たことがある。ミッフィーの展覧会「ディック・ブルーナ」展は一昨年頃巡回していた展覧会である。現在当館の来館者数は一日平均約140人。展覧会に限って言えば約60人。ところがミッフィーは1カ月の会期で、多い時では1日に数千人から一万人以上来る。当館では年間に企画展約10本企画している、しかしミッフィーはその年間総事業費全てをつぎ込んでも開催できない。一本の展覧会で20万人入るからといって年間に企画展が1本というわけにはいかない。子ども向けの展覧会をぜひという話もあるが、その意味はやはり慎重に吟味しなければならない。人寄せパンダという表現があるが、本質を忘れた動物園をつくるつもりはない。正直な話、当館の展覧会は常に子どもに見て欲しいと思って企画しているし、子供の精神的成長を願って作品を提供しているつもりである。難しいと簡単に言われてしまうが、子供騙しの展覧会は絶対にできない。高山さんの枕木であってもそう。さっきの高山さんの米国での子どもの話は、子供向けでないといって作品が否定されるような要素を何一つ含んではいない。日本人だと大人でもあっさり難解だと見放してしまう高山作品に対し、きちんと考え、意見してくれる。子どもを大切にするという視点は、子ども向けの簡単な展覧会をやるという短絡的な発想ではない。そのあたりについて親としてのご意見を常山さんから頂きたい。
常山:確かに「子ども向け」に対応すると、キャラクター展や子どもに人気のマンガ展、とにかく受けるもの、子どもが目を引いてくる美術展を意識的にやるという発想になりがち。しっかりとした文化的な位置づけがあってやるのは面白いと思うが。予算のかねあいがある中で、この館の企画展は10年間、いろいろ考えてやってきたと思う。予算が少ないという点に関しては、美術館が全ての負担を背負い込む必要はないと思う。今回の10周年記念展は良い例だと思う。ボランティアで出来ることもあると思う。出品する方の意志が優先される手弁当式の展覧会であれば、もちろん美術館の方針や地域性を考慮し、内容を審査し、かなったものを企画展に入れるなど、まだまだ出来ることはあると思う。
ただ、集客の面で考えると、美術館友の会を組織することも一つの案。いろんな形が考えられる。また地域だけの美術館にせず、広く門を開いてゆくことも必要と考える。
高山:友人と一緒に野外の公共の場で展覧会を行っている。より多くの人に見てもらおうと、展示期間を半年にして四季折々の変化の中で見てもらえるようにした。この展覧会を行う際にメセナや、民間団体から、助成金をもらったが、美術館でも活用できる資金があるだろう。
また観客がそれを負担するという意識もあってよい。
ストリートミュージシャンを例に見ると、外国はすぐそばで聞くが、日本人は遠巻きで見る。料金を払うなら見ない。いい人がいたらみんなで応援、するとまた表現するチャンスがあり、聞けるチャンスが来る。見せる側と見る側がお互いに切磋琢磨するエネルギーが日本人には欠けている。そういうことがないと一般の市民は新しいものに触れる機会を失ってゆく。自分たちで育むことをしなければ、いつか良いものを見せてくれるだろうという感覚ではお互いに成長しない。もっと長いスパンで、観る側つくる側のコミュニケーションをとり、一緒に育っていったらいい。
外国では社会そのものが、作家に対して、もっとここで勉強して「ここで」育って欲しいという姿勢を持っている。日本の場合、学校以外に人間教育をする場がない。外国には地域の中で生きている実感がある。日本では地域で運動会でもしないと、顔を合わせない。地域の生活者と有機的につながっていくことをもっと考えたい。美術・芸術もその役割をはたすものである。
日本の場合、音楽は民間企業がしっかりしており、産業として成り立っている。美術は産業として企業のバックフォローがされていない。公園で写生会をしてもさして地域との結びつきにはならない。作家が地域と結びつきになるようなきっかけを提案してゆかなければならないのかもしれない。
学校現場では家族の絵を描きなさいという課題を出さなくなっていると聞く。家庭環境も複雑で、両親が揃っていない場合もあるからだというが、そういうことが結果的には差別的な考え方にも繋がっている。日本では何かにつけて「隠す」方向に物事を進めてしまう傾向があるが、そういったことも美術を通して表現し、共通の問題にして皆で考えてゆけば良いことである。表現は、自分の身の回りや現実、毎日嬉しい、楽しい、悲しいといったリアリティーを持って行われるべきで、それを回避してしまっては美術ではない別なものになってしまう。共有することで越えられる課題はたくさんあるのだ。
現代の子供たちにとってこの国の過去の美術や文化は、異文化になってしまっている。全然つながりがないから。目にするのはごく一部の文化財などで、普通の人々がどのように日々暮らしてきたのかを知る術をもたない。また知るための資料も少ない。古い農家を移築している光景を見た子どもが、その大きさに驚いている。昔の日本人がみんな藁葺きの広い家に住んでいたのかと思ってしまう。
山内:会場の皆さんからもご意見を伺いたいと思います。
参加者:同館はN.E.blood21という東北若手作家紹介シリーズをやっている。同シリーズでない部分でも東北に関わる作家の紹介が多い。狭い意味での地元にこだわらず、東北というエリアで若い人にも焦点をあてずっと展開しているこの活動は、おそらく数年後には大きな財産になっていると思う。若手の作家が大家になって寄贈されていた作品に価値が出る、という打算的な発想ではなく、ほかの美術館では行われていない重要な活動として蓄積されてゆくものであろう。東北を焦点にするこの館の狙いは非常に良いと思う。こういった活動は予算などの制約を受ける中でも、やめることなく継続してゆかなければない。
展覧会を基準に費用と入場者の関係だけを観点にするのではなく、地道ではあるがワークショップなどの活動を通し、利用者が行っている創作活動に対する支援なども美術館が地域文化の為に果たしている重要な役割だと思う。もっといろいろな人が利用してくれることを願っている。
参加者:高山さんの話にもあったように、戦争中もそうだったと思うが、国家経済の厳しい状況では絵を描くことは浪費とみなされる。現在も美術館の活動やアートそのものに対しても浪費という感覚がつきまとう。このような現実に対して何か対応策はあるのだろうか。それとも経済効率を考えるとアートはやはり浪費なのだろうか。
山内:経済とアートは同じはかりで量るべきでないという前提が必要である。
私はトマトが好きで、毎日トマトジュースを飲む。市販されている日本産のトマトは味が薄く、良い意味での癖までも希薄になっている。今のトマトには青臭さも酸味もない。しかし、トマト嫌いな人にとってはこれが原因らしく、生産者は甘くて臭みがなければ売上が伸びるためこれら本来の「味」を不用のものと判断してしまった。経済効率を求めた結果である。私のような一部の消費者は疑問を感じるが、一般的にはやがてそれが当たり前になってしまうのである。
同じようなことは魚にも言える。養殖魚は脂を直接食べさせるから脂が乗っているのではなく、肥満体。えさに混入される脂がどんなものなのかさえ知らずに口にしている。
トマトの青臭さ、酸味、天然のしまった食感。経済効率を優先した結果、食材の味や質は平均化され、本来の姿、アイデンティティーを失いかけている。我々は食料を口にする。食料は血肉になり、次の世代に伝わってゆく。スローフード運動によってそういったものを口にしているという危機感を世界が感じ始め、現在食の見直しが行われている。
つまり、かつて食に対して犯してしまったこのような過ちを、今、芸術・文化に対しても繰り返そうとしていないかということを言いたいのである。経済効率を全否定するつもりはない。
高山:浪費という意味をどうとらえるかで違うと思う。作品つくることが浪費だというが、とんでもない金をつぎ込んでその作品を買うことは財産なのか。文化の価値は効率や貨幣価値で計るものではない。フランス・パリの街を洗濯するかどうかで住民投票が行われたことがある。古い町のほこりをとる。反対派の人たちは、ほこりも伝統で、ほこりをとったら文化の一部が失われるという。結局これは大統領選にまで発展する。そういうことを住民が考え、意識していることが大切だ。
また、フランスの周辺国が、米国のポップアートをたくさん買った。フランスはポップアートを安いときに買っていなかった。オランダ、ドイツ、イギリスが買った時、持っていないことが恥ずかしくなり、莫大な予算を注ぎ込んで購入した。これに対して住民が怒り出した。「学芸員は未来が読めないのか」「安いときになぜ買わなかったのか」「個人の好き嫌いで買わなかったのか」という非難が寄せられた。そういう戦いがあってお互いが鍛えられる。
この国では住民一人一人が自分の考え方を言う機会がない。なぜこうなのかと。コミュニケーションの機会がないため、結局は役所的なお金の話になってしまう。贅沢であるということも良い意味と悪い意味がある。日本の中では贅沢・浪費が嫉妬心に近い意味になる。そういうことではなく、価値観をどう考えるかが大切なのである。修学旅行で京都に行けば理由もわからずにありがたいものだと思いこむ。欧米では学校で芸術とは何かを考え、人間とは、自由とは何かを考えさせられる。答えを出すことより、議論することに価値を見出している。
新妻:石巻という地方でずっとやっているが、最近地方の力をあらためて見直している。地方には地方の良さがある。東北地方という話しが先ほど出たが、東北地方では地域柄、今でもおじいさん、おばあさんが持っているような力が子どもたちに反映している。地方の子どもの力は目立たないが、地道さや、ねばり強さのような人が生きてゆく上で大事な部分で確かに発揮されている。今はどうしても華やかなところに目がいってしまうが、都会の子と比べてみても決して劣っているというようなことはない。気仙沼地方にも当然そういう力があり、これからさらに花開いていくし、当然評価されるべきものである。
高山:私の研究からいうと、女性は良いが、男性の特に三十代から定年を迎えるまでの間は非常に文化に対して関心が低い、あるいは関係性が薄い。定年退職し、仕事中心の暮らしから解放されると、多くのものを見過ごしてきたことに気がつく。管理職でいるうちはなにも見えないし、大きな損失だ。女性は若い頃から音楽、映画、演劇、美術など文化的な知的娯楽を楽しんでいる。
芸術は男がだめにするのかもしれない。最近そう思い始めた。女性には男を芸術に触れさせる機会をもっとつくってほしい。先程も述べたが、美術館まで一緒にきた夫を車に残さず、強引にでも美術館に連れてくるようにする。そうすると、好き嫌いは別としてこんなものがあるのかという発見も生まれるはず。
山内:長い間おつきあい頂いた。10年間の活動で目的としてきたことをある程度要約できたという感じ。これからも勉強し、地域が誇れる、あって良かったと思える美術館にしていきたいと思う。是非皆さんのお力添えを期待しつつ、10周年記念フォーラム・第1部を終了する。
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