リアス・アーク美術館開館10周年記念フォーラム

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平成16年10月3日 10周年記念フォーラム第2部 記録

この記録は録音された内容を文章としてリアス・アーク美術館がまとめたものです。

第2部「リアス・アーク美術館の可能性を探る。どこへ向うべきか」

【基調提案】 観光と美術館・博物館の関わり、世界の事例から(宮原育子)

 普段は旅行事業や観光振興についての調査などで県内の各地を訪れている。気仙沼にも何度も来て、いろいろな人と話をさせて頂いている。昭和50年から11年間、旅行会社で勤務し、添乗員として世界各地を旅行した。思い起こすと、旅行中にずいぶん沢山の博物館・美術館を訪れる機会があり、とても良い仕事だったと思う。今日は観光と美術館の関わりについて話したい。

 いうまでもなく、美術館・博物館は大変貴重な観光資源。現在、日本でつくられている各旅行会社のパッケージツアーには、美術館や博物館の見学が組まれることが多く、パッケージツアーでないにしても一つや二つは観覧してくるようだ。ほとんどのパッケージには、美術館・博物館の見学が含まれていて、これ無しでコースを組むと、特にヨーロッパ、米国都市部ではお客さんにとって魅力のないものになってしまう。ヨーロッパなどの歴史的な建造物の中で、本で見ている有名絵画、本物が観られるということ、また、美しい空間の中で、言葉が理解できなくても時間を過ごせる。絵を鑑賞し、ものを観ることを通して、その空間に参加できることなどが、人気の理由だ。また、最近はミュージアムグッズ、収蔵品・展示作品の図録や模造品、絵はがき、ポスターなどが充実していて、他では買えないようなお土産がこのミュージアムショップで手に入る。これも観光客が博物館・美術館に立ち寄りたい動機の一つになっている。

 パリのルーブル美術館、マドリードのプラド美術館、ロンドンの大英博物館、ナショナルギャラリー、ロシアのサンクト・ペテルブルグのエルミタージュ美術館、イタリア・フィレンツェのウフィーツィ美術館。こういったところが、ヨーロッパを二泊、三泊するときには必ず含まれている。日本人観光客だけでなく、海外からの客も多い。パリのルーブル美術館は、年間入館者数が600万人超で、その66%が海外からの観光客。ロンドン大英博物館も同様で、年間620万人以上、ナショナルギャラリーも500万人以上が世界中から訪れる。ちなみに平成14年度、日本の国立美術館すべての入館者数は約204万人で、世界の巨大な美術館一館にもかなわない。

 米国地区は、非常に近代的な施設が整い、東洋美術の所蔵が特徴的なボストン美術館、ニューヨークのメトロポリタン美術館や近代美術館、メキシコシティーの人類学博物館など、特徴的な美術館・博物館が多い。これも多くのお客さんを集めている。1980年代にボストンにあるチルドレンズミュージアムに行った。

開館が1913年で長い歴史を持つ子供のための博物館。ボストンの港の倉庫を改造してつくったものだ。大学の先生や学校の教師たちが中心となって、子どもたちが教室の授業では出来ないような体験学習をしてもらうことを目的として設立された。特徴は展示物を手で触ったり、持ったりすることが出来ること。日本家屋を設置しており、畳に上がって、ふすまを開けたり、食器を持ったりすることもでき、日本の普通の生活を見せている。

 ユニークな博物館としては、ポーランドの古都・クラクフの塩の鉱山がある。日本は海から塩をとるが、ヨーロッパは岩塩で、山の中から取り出す。ヴェリチカという町全体の地下に塩の鉱脈があり、12世紀ごろから塩を掘り出し、地下に非常に大きな空間が出来ていて、それを一般に公開している。地下10階の深さの大空間で、全て岩塩の岩盤をくり抜いた中に、昔塩を掘った様子の展示や、世界の塩を紹介するなどのいろいろな部屋があり、世界遺産に指定されている。この塩鉱山博物館は、塩鉱山の迷路を廻るだけではなく、医療目的にも使用されている。ぜんそくの人が一定時間過ごすと身体に良いと、療養所や教会までつくられている面白い施設だ。

 課題は、美術館・博物館に行った時の日本人の鑑賞マナーだ。大声で話したり、走ったり、目で見ずに、写真ばかり撮っている。パッケージではどうしても時間が少なく駆け足ということで、本当に見ているのかなと思われることもある。また、ヨーロッパでの絵画・彫刻の展示は、キリスト教をバックグラウンドにしたもの、古代のギリシャ彫刻が数多い。そういった背景について、事前の情報収集や学習をし、理解して見に行くと、もっと面白く見られるのではないか。たくさん行っている割に楽しんでこられないのは、こういう準備が欠けているためだと思う。

 今回のテーマは美術館・博物館ということだが、同じ社会教育施設として植物園がある。これも海外旅行では面白い場所で、地域の植生がよく分かり、多様な植物に出会えるし、野外を歩く楽しみも、歴史と出会う楽しみもある。

 シンガポール植物園は、シンガポール周辺の熱帯植物がたくさん集められ、日本人が出会うことがないような大きな木、南国産の樹、シダ植物、ランなどがたくさん展示されていて、芝生がきれいなところを歩くのも楽しい経験だ。

オランダ・ライデン大学付属植物園では、シーボルトが江戸時代日本に来た時に、日本から持ち帰った苗木が根付いて大きくなっている。400年の時を越えて、シーボルト由来の日本の植物に海外で出会い、歴史を知る楽しみもある。

 最近では新しいタイプの植物園がある。イギリスでエデンプロジェクトという大きな植物園が2001年に開園した。イギリスはコンサバティブで古い建物を大切にしているが、ガラっと雰囲気を変えた近代的で面白いタイプの植物園をつくっている。場所は過疎化が進み産業もあまりないイギリス南西部で、石灰岩の採掘跡地を利用して建設された。この植物園によって地域の雇用も生まれた。エデンプロジェクトのテーマは人類と植物の共生で、熱帯から温帯までの植物を集め、それが人とどう関わっているかということを中心に展示している。入館者は年間190万人を数えている。石灰岩の採掘跡地の窪地に建設された大きなドームが、蜂の巣構造で連なり、天井には外気を入れられる窓がある。

 ここには子どもからお年寄りまで多くの人が来ている。オープン当時は国内の利用者が圧倒的に多かったが、今は外国からもたくさん来ている。館内は大きなドーム型で、高さはおよそ5階建てで中が大きいので、アジア熱帯雨林の竹の家もそのまま展示できる。木の家が、身体を冷やして休めるクールレストルームとして利用されている。植物に混じって様々なオブジェ、熱帯の果物が人間に役立っているというチョコレートの展示や、布を染めることが出来る植物の展示もある。

 環境との共生という思想により、いろいろなことが一貫している。エデンプロジェクトのビールがあり、フォークやナイフもプラスチックではなく、木を使っている。環境に優しい素材を使っている。レストランの食材も、ここで育てている。

 掲示は、短い文章で誰にでも分かるようにし、人と植物の共生について様々な方法で伝達している。専門的に研究している人が施設の要所にいて、専門的な説明から一般的なことまで、生の声で植性や生態について解説する配慮がなされている。常駐スタッフは600人だが、その95%が地元採用で、年齢も16歳から72歳と幅広い。地元採用の半分は、以前に職が無かった人で、植物園が出来て職を得た。この植物園は大きいので、来場者の平均滞在時間は3時間から4時間と長い。広場がいくつかあり、植物園の中で、ミニコンサートなどのイベントがいつもある。地元のアーティストが来てコンサートをし、CDも売っている。

 美術館・博物館は、地域の社会教育施設であると同時に、やはり観光客が集まる交流施設、年齢、国籍の違う人達が集まって、楽しく学ぶ施設という方向性もある。観光客が地域を学ぶために、美術館・博物館・植物園というのは不可欠な存在である。ルーブルや大英博物館のように、世界中から観光客を集めている有名な施設もあるが、一方で、地域に根ざして小さくても特徴があるような美術館・博物館にもお客さんが集まる傾向がある。これからは、一層二極化すると思う。大きな美術館と、小さいけれど個性豊かな施設で、お客さんがそれぞれの特徴を楽しむという傾向が出ると思う。

 いろいろな人が集う美術館・博物館という場所が、来訪者にとってどんな施設であればよいのか、いくつかポイントを紹介したい。まず、展示の表示・案内は、一般的で分り易くし、地域性を持たせる。地域性を持った表現であるほど、お客さんはその場に来たという印象が強くなる。外国人が多くなるケースには、様々な言語の表示や解説テープを用意するが、こうした配慮・工夫には、展示物を正確に知らせたいという熱意が必要だ。ガイドの整備も進めると、他所から来る人には、効果的に学ぶための大きな助けになる。ただ単に鑑賞するだけでなくて、施設の中でイベントに参加することも客にとっては面白い。ただ見るだけでなく、きちんと学びたい人は、ミュージアムブックや、専門書、図録など関連する書籍を買い求める。こういったものは書店に行くのも良いが、館内で充実した質の高い書籍が買えることが魅力的。ミュージアムグッズも、館のロゴが付いているようなものを充実させることが必要だ。

 最後に、海外で観光客がもっと楽しい見学をするために、日本にある美術館や博物館で取り組んで欲しいことを話したい。ヨーロッパや米国に行った時、どのような見方をすればいいか分からないようだ。静かに見なければならないところと、参加型のところと、いろいろな鑑賞の仕方があると思うが、基本的には鑑賞マナーの講座があると良いと思う。また、西洋美術はキリスト教文化を背景にしているし、アジアでもタイやインドなどの場合は、神話を元にした作品が多い。こういうことを知らないでただ見てくるのはもったいないので、日本の専門家がプログラムを組んで事前学習の講座をつくり、海外の美術館・博物館の情報提供もしたら良い。これは旅行会社と組んでプログラムを作っても面白い。

 絵を見る機会はあるが、どう見るかは学習していない。どう美術館・博物館に接していくか、旅行に行く前に分かっていると良いと思う。学芸員が旅行に同行して解説してくれるのも良いと思う。海外では今、オーソドックスな運営の他に、いろいろな試みがなされている。イギリスでは1980年代から、ただ単に美術館がある、作品を鑑賞するというだけでなく、展示物の中でどうやって楽しんでもらい、意味を見つけてもらえるかということに大変興味を持ってきている。来館者のニーズ、声を良く聞きながら、より来館者に楽しんでもらい、収蔵しているものをより深く学習してもらう機会を整えていく試みも1990年代からなされている。日本もこれからいろいろな形で整備が進められると思うが、海外の事例を積極的に参考にして欲しい。

  

【基調提案】 民俗・食の視点から、館と地域の未来を探る(結城登美雄)

 私は身近な、足もとの文化といったことについて話したい。私が県内でやっていることを紹介し、これからの美術館の方向性にうまくつながってくれればいいなという話をしたい。それが美術館の未来像を示せればいいし、この地域がよい地域になることにつながっていけばいいなと思っている。

 美術館はこのままの状態でやっていけるのかという不安のようなものを、講演依頼を受けたときのニュアンスで感じた。リアス・アーク美術館に限らず、公共施設、スポーツ施設も、これからどうやって運営していったらいいかということが問題になっている。これは美術に限らず、文学の世界などではもっと以前からそうなっていた。良い作品を生み出す作家が、生活保護を受けているという例を何人も知っている。

 良いものが、必ずしもお金にならない社会になっている。良いものをつくれば、きっと多くの人に支持してもらえて、お金持ちになるに違いないという時代は、ややしばらく前に終わった。理由として、資本主義社会の変容がある。資本主義社会は生産が中心の社会だったのだが、この生産を中心にした資本主義が変容し、ハイパーな資本主義、消費を中心にした資本主義になった。消費資本主義においては、良い作品を生産する美術・美術館が主ではなくなってしまい、宣伝によって期待を抱かせられ集まってくる場、テーマパーク、ディズニーランドなどが稼いでいる。「落ちぶれたとはいえ美術館」とは言っていられなくなってきた。

 必ずしも、大衆性や娯楽性が悪いというのではないが、美味しくもない健康食品やワンパターンなハリウッド映画がなぜ爆発的に売れるのか、黒酢なんか飲んでどうなるのか、少し立ち止まって考える必要がある。結論は単純。美術館はもうちょっと作家、作品依存のイメージを脱却して、もう少し別の場所に出て行ってはどうかと思う。従来の概念だけではとらえられない建物、場、気仙沼と関連する人たちとつながりを持つこと。これまでは良い作品に人が集ってきたが、どんなにすごい絵画を持ってきても、見るときは3秒しか見ていない。命がけで描いた絵を3秒しか見ていないのじゃ、写真を取っただけで終わる。

ほとんどの文化は祈りの文化で、美術館・博物館は、自分がこれで良いのかとか、このままで自分の人生は良いのかと迷った時などに訪れる場所でもあり、あるいは、先行きが見えなくなったときに、過去を振り返り、こういうもので人は生きていたのだと気付く場でもある。そして、時代とともに博物館・美術館も変わっていかざるを得ないし、いろんな人をたくさん呼びたいと、集める努力は必要だ。それは金、力、宣伝性、作品性だったり、計算にまつわる領域のことだったりするのだが、そうではなくて地域の人が集まりたいと言うことは何なのか、私もそこに行ってみたいと思うことは何なのか。

決してディズニーランドをつくって下さいというのではなくて、「集まりたい、集まるところ」とはなんなのか。美術館が予算を立ててお金をかけて、一生懸命苦労して「さぁどうぞ」と差し出すのではなく、「皆さんも何か持ち寄りなさいよ」と呼び掛ける事はできないものか。そんな、いわば作品から物事をとらえていくのではなくて、ここに暮らす人たちが自分自身の在り方、地域の力を確かめる場であったり、地域の文化を見直す場であったり、ということができないものか。

 この美術館ができた時に、ちょっとだけお手伝いをさせて頂いた。その当時、私たちが気仙沼・唐桑近辺の家々を一軒一軒回っていくと、都市に住む私達にはない、非常に優れた大切にしているものを押し入れにそっとしのばせてあった。無くてはならないもの、人には言わないたくさんの物語があって、捨てないでとってある、何か伝えたい、残しておきたい、家々の誇りのようなものが感じられるものがあった。作品性という価値論より、そこに暮らす人々の生きてきたその中から何か大切なものに耳を傾けることから始まりはしないか。そう思いたくて、その時以来10年振りでここに参りました。

 食と民俗ということだが、宮城県の宮崎町(現加美町)は、28の集落が集まって6,000人が住んでいる。コンビニが無いということをその町は恥ずかしいと思っていて、私もコンビニがない田舎町と思っていた。その代わり、家々の周りには自給用の畑があって、そこに季節の野菜があり、年間4〜50種類をみんなが作っている。例えば、菊を採ってきたらナメコと合わせて一品にするおばあちゃんがいた。このおばあちゃんを泣かせるのが私の仕事になっていた。

 このおばあちゃんは、20歳の時お嫁に来て、今なお6人の家族の食事を作り続けている。1日3回作って 1年だと1,095回だねと言ったら、時々手を抜くからといい、じゃあ1,000回だねということにしたが、1年に1,000回、10年で10,000回、20歳から90歳まで何と70,000回の食事を作り続けている。店から買ったのではなく、耕し、種をまき、育て、保存する。家族のために作り続ける70,000回の食事の力とはどういうものかと、一軒一軒村を廻り、聞き歩いた。みんなが作っているものはありふれている。しかし、おいしい。

それら「嫌だ」というのを口説いて料理を集めた。恥ずかしそうに持ってくるのは、「当たり前」のものばかり。当たり前のものは美術館に展示されない。しかし、私は当たり前の中にこそ、人との関わりがたくさんあると思った。持ち寄る力があり、全部で800種類を超えた。ご飯だけでも80種類あった。若いお母さんがNHKの「きょうの料理」で覚えたおにぎりで、別なおばあちゃんはいろり端でつくった焼きおにぎり。国体用につくったバレーボールコートが 4面取れる大きな体育館は誰も使わず、これからどうなるのだというところだった。そこにおばあちゃんたちが作った料理を並べたら、何とそこに15,000人が訪れた。

今年6年目になる。持ち寄る力。そうすると不思議なことに見ず知らずのものが、「料理は食べてみたいものですな」と言い始め、みんな後ろ手に爪楊枝を隠している。食べたらいけないのだが、味見をする。「ちょっと塩が足りない」「みりんを入れたらもっと良い」とか、いろいろごちゃごちゃ言い始める。へらへら話す。大きな会場に見知らぬもの同士が二重にも三重にもなって会話をしていた。

 やってみて初めて気付いた。みんな、たくさんの思いや言葉を持っていて、つながりたいと思っている。同じ町に住みながらこの  5年、ご近所と話したことがないという、そんなことが当たり前。そんな人たちが、昔を懐かしんで、見ているだけでは物足りないと、1年かけて料理を復元してきたら、今度は1,300集まった。   1,500世帯のうちの1,300世帯が家庭の料理を持ち寄った。食べさせたのは、28種類を10,000食、行列の出来る体育館になった。そうしたら、商工会や町が予算をくれるようになった。次には、食べ物のことに興味を持ち、食べ物が生まれる時はどういう時なのかと、わざわざ東京、九州、北海道からやってきた人もいた。そのうち、子どもたちにこんな経験をさせたいと旅行会社がいいだした。バス1台分だけ受け入れると、子どもたちが嬉しそうにゴボウを抜いていった。

 こんな体験が何になるか分からない。ただ10年後、20年後に、ある日ゴボウを抜いたという経験が、勉強よりもよほど何かになるかも知れないと思う。歴史民俗資料館というのがあった。古い民俗資料の倉庫、みんながそこで食べたいと言うから、がらくた置き場になっていたところをきれいに拭いて、料理をつくった。10分で100食の申し込みがあって、すぐ締め切られた。おばあちゃんたちの力が、食べたいという人達と出会う場所を生んだ。何の気なしに聞いていた女の人の知恵が集約されていて、丁寧に見ているとたくさんの可能性があった。1人のおばあちゃんの70,000回の食事が持つ意味を考えるのも、大事なのだと思った。

 宮城県から頼まれて、北上町で子どもたちへの食育事業を手掛けた。どこでやるかと相談された時、県職員は気仙沼、石巻、角田、塩釜でという。せっかくだから生産金額の多いところでやりたいという。だが、社会科の授業ならともかく、食育には水揚げ300億円などなくてもいい。それは社会科に任せていいと思い、北上町でといった。そしたら県職員は「あそこは何もないでしょ」と声をそろえた。若い職員が「ワカメがあった」「シジミがあった」と言いだしたところで口をつぐんだ。でも、北上の人は、シジミとワカメだけで生きているわけではない。

 母親13人にシートを配り、何を使ってどんな料理をしているかというのを書き出してもらった。すると、何と 450種類の食材が出てきた。海から120種類の魚、北上川から16種類の魚、畑から 80種類、キノコ38種類、山菜35種類などなど。市場にはワカメとシジミしか出ないが、家族のための食材はこんなにある。

リアス式海岸の浜辺で、おばあさんが「ここは私の畑」という。マツモやひじきが次々とれる。だから大切にしていく。ウニを捕って下さった。何もないけど食べさせられたのは、唐桑では話だけで目にすることが出来なかったウニ丼だった。ウニご飯、ウニの酢の物が次々と出てきた。キノコ取りの上手なお母さんがいたが、これを子どもたちに伝えることは出来ないか。家庭のせい、学校のせいと、キャッチボールで責任を押しつけ合うのではなく、お母さんたちを先生にして伝える場を作れないかと考えた。誰かにやってもらうのではなく、自分たちが意識しなければ伝える場にはならないのだ。この美術館だって意識してやれば、いろんな場に変化するのではないか。

 地域で食卓を持つことが無くなったので、「ホールでみんなで食べるから作って」とお願いしたら、「いいよ」と引き受けてくれた。作っている人たちも楽しそうだった。13人のお母さんたちに声を掛けると、当日集まった食材は150種類。冷蔵庫に、畑にあった。スーパーもコンビニもいらない。自分の暮らす目の前の畑、周りが食物の宝庫だった。一品ずつ持ち寄って輪になり、そこに子どもたちも加わって、地域の食卓を楽しんだ。こんな授業をしながら、私はスローフードをやっていた。

 料理が出来る前に私が話すのはたった一つ。頂きますは誰に言うの?漁師さん、農家の人、料理をつくってくれた人、自然の恵み、水や川や風や光。ここまでは子どもたちも答えてくれる。もう一つは目の前の食材に「魚さん、ごめんね」という。人間が魚を食べ、豚を食べ、ありがたく、無駄なく食べますと最後に言う。これが私の伝えたい食育。残さず食べるのが必ずしも良いとは限らないが、これをすると残さず食べる。

 また、川島さんの専門分野だが、おしらさま、あわぼひえぼ、伝統行事や古い文化、生活習慣は、意識的に伝えなければ今は伝わらない。学校で、家庭で、地域をテキストにして、地域で伝える場を持とうではないかと、公民館に子どもたちを招いて、授業をした。同じようなことがあり、違いがあり、様々なことが学ばれた。それを支えるのがお母さんたち。お母さんたちの最後に、79歳のおばあちゃんが話してくれた。

 「お母さんたちは昔も今も、子供を産むときは自分が死んでしまう危険も意識しなければならない。命を落としてしまう人もいて、自分がそうならないように女の人の知恵を持ち寄って、仕事が過重にならないようにする。命がけで、自分を棺桶に突っ込む思いであなた達を生んだのです。だから人をいじめたり、自殺したりしないで下さい」と。これは言って下さいとお願いされて、言ったわけではない。自ずと出てきた言葉でした。

 宮崎町の90歳のおばあちゃんと北上町の78歳のおばあちゃん。二人の中にあったような、沢山の学ぶべき、伝えるべきことが、60,000万都市の一人一人の中にもあるのだと思う。

 気仙沼・唐桑と付き合って多くを学んだが、1988年、唐桑で臨海劇場というものを建築家・石山修武氏とやらせて頂いた。雨漏り建築家といわれているが、なかなかいい奴だ。大漁旗が、町のどこの家にも大切にしまわれていた。押し入れに入っていた。町を支えたある時期のみんなのシンボル。船が帰ってくるのを待ちわびた。しまい込んで忘れがちになっていたものをつなぎ合わせて、小鯖という小さな漁港で、30年放置されていた鰹節工場をみんなで片づけて、広場を作った。竹を切り、大漁旗を持ち寄り、お母さんたちは体育館で大漁旗をつなぎ合わせた。一枚一枚はそれほどではないにしても、集まると、あっと声が上がったあの瞬間を忘れない。

 大漁旗で劇場を作ろうという企画によって、初めて人がつながり、ものがつながり、人の力が結集することの意味を実感した。公共施設のない唐桑に3日間だけのみんなの劇場が出来た。夜は、真っ暗だったところに光が入って幻想的な雰囲気になった。そこで町に伝わる物語の劇が上演された。町の800人くらいの観客が見に来て、自分の町の物語なのに、涙なんか流すシーンもあった。人が手をかけていくことによって、人と人の関わりが変わる。明かりを付け、竹を切り、そんな力が集まり、大切なことを教わった。先ほどの宮崎町の話でも、家々のなんでもない普段の家庭料理1,300を集めると、みんなが見に来る。本人たちが満足する。男たちは「俺たちの町、俺たちの町の女はすごい」となり、そこからいろんな動きが生まれてきた。

 最後に、気仙沼の高橋純夫さんという方が生涯をかけて描いた凧を素材にした話をし、そのことの持つ意味は何なのかと言うことを考えていきたい。

高橋さんは、自分の部屋を「凧部屋」と呼んでいた。子どもたちのことをずっと考えていた人だった。この10年、子どもたちを巡る様々な動きがあるが、これに先んじて子どもたちのことを考えていた。常にまちのことを考え、誰かに頼まず自分でやりなさいと言っていた。役場に頼むのではなく、自分でということをぽつぽつという人だった。子どもたちと一緒に遊ぶ変なおっちゃん、「たかこー」のおっちゃんだった。時に変人扱いするひともいなくはなかった。

 いつも船が出航する時、高橋さんの姿が気仙沼港のどこかに、特に一番突端の方にあった。いろいろ聞いていく内に、漁船を下りた漁師たちは口々に、「見送り岸壁を出て外洋に出ても、高橋さんの連凧が最後まで見送ってくれた。あれはふるさとの風景でした」と話していた。安波山や、今も続いている天旗まつりでも揚げていた。その周りにはいつも人が集まっていた。臨海劇場の小鯖で挙げているのを見た秋田の人は、宿にも戻らず、ずっと見ていた。はしゃいで、子どものような大人だった。

 県美術館でアートカイト展という、凧に絵を描いて展示する大きな美術展があった。それを見るために、私の家に1ケ月泊まった。彼は私に言った。「あれはいい凧だが飛ばない凧だ。飛んで初めて凧である」と語り、  1ケ月の会期中、美術館の庭で凧を揚げ続け、そこにも学校帰りの子どもたちが集まっていた。

 「海の生き物以外は凧にしない」と話していた。ウニ、アワビ、 ホタテ、マグロ、サンマ、海藻のワカメも凧になった。何メートル揚がるかは絶対答えてくれなかったが。

 亡くなる前年、私も病状は知っていたので、作品を展示して売ってもいいかと聞いたら、「うん」といった。石山さんと一緒に、高崎市の第7官界という個人美術館のこけら落としで展示する手配をした。朝市で1,000円で売っていたのを、私が値段を付けて全てゼロを一つ増やした。1,000円のものを10,000円に、    2,500円は25,000円に。ほとんどが売れた。見ず知らずのおじさんがつくった凧をみんなが欲しがった。

 「高橋さんの作品は、みんなをつなぐ偉大なるパブリックアートだ」という激賞も受けた。そんな高橋さんが残した凧を、私が10年預かってきた。意識が不明になる直前に凧部屋が壊されると聞いて、慌ててかき集めたものだ。作品には日付が入っていて毎日日記のように描いていたことが分かる。日出凧は太陽と、光、風、水を現している。たどっていくと、様々な思いと、その変化が見える。太陽が黒くなったり、青くなったり、形が変わるだけではない。ゆれる気持ちも反映されていた。10年間で描いた400枚が残されており、そのうちの  200枚が私の手元にある。これを美術館に贈りたい気持ちがある。しかし、収蔵されてお蔵入りという危険もある。皆さんに、これらの凧によって、高橋さんが何を考え何を伝えたかったのかを、考えて欲しい。型紙もあり、図面に起こしてある。この通り切り抜けば揚がると、残してくれた。晩年は白い凧をつくっていた。「枠までつくったから、あとは皆さんの気持ちを描いてあげなさいよ」といっていた。これからの美術館のあり方の中に、一人の凧に魅せられた男が残したメッセージも入れてもらえるのであればと思う。

 地域には、まだまだ沢山のおばあちゃん、「高橋純夫さん」がいるはず。そういう人を皆がどう受け止めるかだ。お金、力、作品性で利用者を引きつけることも大切だが、見に来る人が持っている大切なもの、私もここに持ち寄りたいものだというものも、美術館の未来の一つになってもらえたら嬉しいと思う。

 

【パネルディスカッション】  「実行と実現へ向けて、何をなすべきか」

昆野:今までの二人の話をどう受け止めたか。各自がやってきたことをもととして、美術館との関わり方を今後どうしたいか、まず菅原さんから伺いたい。

菅原:スローフード運動を進めている。食べ物のことだけではなく、食べ物がつなぎ得る関係、人と人、文化、自然との関係をもう一度見直してみようということで、気仙沼ではまちをあげてみんなでやってみようとしている。食材は豊富で、海にも山にも川にもいろいろなものがある。生物も、加工品もある。保存食も、発酵食品もある。実に食に恵まれている土地だ。それを確認して、もっといろいろなものとのつながりを整理して、見直してみたい。人と人のつながりも、結城さんの話にもあったが、隣近所とのつきあいが無くなっている。お裾分けの文化や、みんなが集まってわいわいやっていた文化が良かったと思うなら、それを取り戻したい。

社会生活のリズムではスピードが何よりも要求されている。それはもちろん大切だと思うし、自分は経営者で、即断即決、スピードが要求される部分があるが、スピード、効率、経済性だけに目がいって、もっと大事なものを失いかけてはいないかと思う。スピードも大切だが、そうではない時間の過ごし方、少しゆっくりとものを考えることなどを大事にしたい。

食文化でいえば、ハンバーガー、コンビニ弁当、カップヌードルを食べる時があっても良いと思う。でもそれだけを何気なく受け入れるのではなく、食文化、地域の味、家庭の味があるわけで、これらももっと大事にしたい。簡単に手に入る、すぐ目の前にあるものを、利便性、価格の安さだけで手に取ってしまうのは止めようではないか、見直してみようということを、この町でやろうとしている。この運動は、当然、観光とも結びつく。地域の誇りや資源をきちんと見せていくというのが、今の観光には求められている。地域が古くから大切にしている食文化を整理してみることで、自分たちも楽しく食卓を囲めるようになる。観光に来た人達が、素晴らしい風景、シチュエーションの中で、ゆっくり、楽しく、地域の食文化を味わうことができる。そんな観光が出来るとこの土地の可能性はもっと広がる。

生活、文化、自然の豊かさを維持し、精神的な豊かさを高め、一方で経済的な交流人口を増やして産業化を図り、この土地にお金を流入させていこうと考えている。食はコミュニケーションと結城さんが話していたが同感だ。コンビニ、ファーストフードではマニュアル化された言葉しか出てこない。何の驚きも感動もない。手がかかっている、工夫されているというものを通してコミュニケーションを取っていった方が、よほど素晴らしい関係が生まれると感じている。

 先の6月に、スローフードのメンバーと、市の実行委員、美術館学芸員の山内さんら20人でイタリアのジェノバに行ってきた。イタリアのスローフードを学ぼうとか、イタリアの文化を学ぼうとかのために行ったのではない。逆に、自分たちの持っている魚食の文化を、整理して世界に発信するための機会として行ったものだった。自分たちの魚食の文化はどんなものかということを、体系的に整理してイラストで表現し、海外の人たちに紹介してきた。漁業の歴史、気仙沼地方の漁業は、大量生産・大量消費のような資源を枯渇させてしまう巻網漁業ではない延縄漁業であること、遠洋マグロ、近海、沿岸、浅海など日本でも珍しいくらい多種多様な漁業形態があること。日本人の魚食に対する考え方は、マグロ・刺身・鮨だけでなく、小魚、海苔、加工技術など多岐に渡り、ただ単純に高級魚だけを食べているのではないということも分かってもらえたと思う。箸の文化。魚は箸でほぐして食べる。口に入れた骨を出したり、ということをやるのは日本だけで、日本人の生活にどれだけ魚が関わっているかを紹介してきた。

 このベースになったのは、リアス・アーク美術館の今の常設展に展示されているものだった。以前は、押し入れ美術館として集められたものが、押し入れのように置かれていた。まちづくりでは宝物探しとしていろんなものを持ち寄るのは非常に良いことで、それなりに意味があったのだろうが、見る側からいえば、一度行ってどこにもあるようなものが並んでいれば、その後は遠のいてしまう。今のように、食というテーマに沿って、その関わりの中で収蔵品が紹介されているのがすごく新鮮だったので、より深くして外国で見せてみたいと考えた。  ここ2年、毎月2回位は常設展に来ている。その前は気付かず申し訳なかったが、この運動をやるようになってから見方が変わった。今では、お客さんや視察の人、取材の人があれば必ずここに連れてくる。気仙沼とはこういうところだという説明と導入をここでして、市内で食物を見、食べてもらうようにしている。

 これまでに押し入れ美術館としてやってきたことが、今の「食」をキーワードにしたものへとつながってきたのかなと思う。それを、きちんと発信できる場所にリアス・アーク美術館は成りつつある気がする。

昆野:常設展を高く評価して頂き、大変有り難い。常設展の現在の内容に限らず、川島さんは広い意味で民俗・地域の研究をされている。美術館との関わりにおける今後の可能性などを聞かせて頂きたい。

川島:宮原先生の話は、美術館は学習する場で地域の社会教育施設、あるいは観光客が地域を学ぶオリエンテーションの施設としてあり得るというのが印象的だった。結城さんの話は、美術館・博物館が別の場所に出て行くという発想。私たちの発想は建物に資料を封印するという考えが根強いが、凧は大空のキャンバスに挙げるもの。外に出て行くという考え方も取り入れていかなければいけないと思った。暮らす人たちが自分を確かめる場、意識的に伝える場としてのリアス・アーク美術館のあり方もあるだろうというのも良く分かった。 私は、個人の学習・研究に博物館・美術館がどういう関わり方をしていったらいいか、あるいは地域の文化をどう伝えていったらいいかということを考えていきたい。

 まず、国立民族学博物館共同研究員のプロジェクトチームの研究内容を紹介して、話の糸口にしたい。大阪万博の跡地にある博物館に、様々な専門分野の人が年に数回集まって、口頭伝承と文字文化というテーマの研究をしている。2日くらい缶詰になって話し合っている。私のテーマは、本を声に出して読む音読が、過去の民俗社会でどう位置付けられてきたかを跡付けること。視覚を中心にした文字と、聴覚を中心にした語りとがどんな接点があるのかを追求している。

 美術館博物館も視覚を中心としているが、県美術館の企画展(せんだいメディアテーク)で、手と耳と鼻で作品を楽しむことを初めて試みた。今までは目で見ることが中心。視覚以外の聴覚、触覚、味覚、臭覚が、どのように個人の学習や研究に役に立つかということを具体例を通して考えていきたい。

 まず気仙沼の本田鼎雪氏のカツオを描いた作品だが、カツオ漁の盛んなところを歩いていると同じような絵に時々出会う。1978年に制作された作品「黒潮」は、大漁祈願として、静岡県御前崎の神社に奉納されている。「奉納」という文字が書き込まれている。このような絵をもう一つ見ることが出来たのは、三重県尾鷲市三木浦というところにあるカツオ船「長久丸」の船主の家で、作品を神棚の上に飾っていた。私は美術館でこの絵を見るよりは、このようにカツオ漁の盛んな土地の神社や船主の家で見る方が、おそらくこの絵に込められたであろう思いが伝わるようで好きだ。

 実はフランスで最初の公共美術館が成立しようとしていたとき、絵画などが元々あった場所から美術館に移されるというのは芸術の死ではないかという批評家の意見があったという。このことを述べたのはベンヤミンで、彼は著書『複製技術時代の芸術作品』において、礼拝的価値から展示的価値へというキーワードを用いて現代芸術をとらえようとしていた。しかし、おそらくベンヤミンも気付かなかったと思うのだが、礼拝的価値から展示的価値へというように、歴史は一方向にだけ流れるものではない。本田画伯の絵のように、作品としての展示的価値から神社に奉納される礼拝的価値へと、逆戻りする場合も日本では綿々と続いてきたといえる。視覚から来る印象だけでなく、礼拝的価値を典型とするような作品からくるオーラを、どのように美術品の展示に生かしていくかというのも今後の課題ではないかと思う。

 「本読み」の話しに戻るが、音読もあまりに日常的であったために、もはや今では聞くことができない。民俗芸能など華やかなものは舞台芸能としても残すことが出来るが、新聞を読むときまで音読をしていたという、その節の方はもはや伝えることが不可能になった。昔は節のある読み方が上手な読み方で、節のない、学校で覚えるような読み方は下手といわれる時代だった。

次に聴覚でとらえられてきた口承文芸と、身体感覚を含んだ身体技法との関わりを少し紹介したい。気仙沼地方の農具「フルウチ」は竹を使って作る農具で、麦打ち、豆打ちとかに使われる。簡単に作れる日常の道具だが、今でも使われているためか、逆に博物館などでは見られない。麦打ちのような農作業は、麦を置いたむしろを挟んで、人と人とが向き合って交互に地をたたく作業をする。作業を合わせるために歌われたのが「麦ぶち唄」という民謡。カツオ漁の「大漁唄い込み」の前唄として歌われる斉太郎節と同じもの。カツオ漁と麦の収穫期がだいたい同じだったというのも一つの理由だと思うが、この唄が櫓こぎ唄から麦ぶち唄へと伝わっていった。

 気仙沼地方の前唄は、櫓をこぎながら歌われるものだが、岸が近づくとスピードを緩めて「唄い上げ」といわれる後歌が続く。この唄い上げが歌われる数によって、岸にカツオの漁獲量を知らせる。当時は冷凍設備がない和船の時代で、水揚げされたカツオはすぐに鰹節に加工しなければならなかった。そのために伝えられた漁獲量によって、カツオを煮る釜の数をそろえてお湯を煮立てて待っていた。今では舞台でしか演じえない民謡だが、もともとは農作業を整えるためとか、櫓こぎ唄として歌われていたものだ。

 同じような作業形態と身体技法を通して唄が伝承されている。博物館の展示でも、農具や漁具という道具の展示だけでなく、どのように作られ、どのように用いられたのか、絵画資料や写真資料としても伝えていかなければならない。同時に、作業の場が民謡などの口承文芸の発生する場でもあったことが確認されたように、口承文芸を今まで聴覚だけでとらえてきた研究状況も反省しなければならない。それから、味覚・嗅覚をどのように伝えていったらよいのかを考えるため、市内の漁師さんから年中行事の食事内容を取り上げたい。結城さんの例が日常なら、こちらは晴れの日の食事で、味覚とか食材だけが独立して伝えられてきたのではなく、年中行事に組み込まれ、食べることで年中行事の記憶を思い出すことが出来るような一種の身体感覚に近いものだったと思う。年に一回、この日に食べることが出来たために美味しかったので、味覚だけの問題ではなかったといえる。

 次に、もう少し広い範囲の話をしたい。西南日本、特に四国から九州にかけては、おそらく最近の現象だと思うが、二つの醤油が使われている。本来、西南日本ではたまり醤油というドロッとしたソースのような甘口のものが一般的だったようだ。私が西日本を歩き回った当初、最初はたまり醤油しかなかったから、普通の醤油を下さいと行って笑われた経験もある。徳島県宍喰町竹が島の民宿では、「さしみ」と書いてあるのが我々が言う醤油。「醤油」と書いてあるのがたまり醤油と区別できた。高知県高知市のカツオのたたきの美味しいお店の醤油は、「醤油」がサシミ醤油で、「たまり」と書かれているのがたまり醤油で、徳島の事例とは逆転していた。宮崎県日南市油津のホテルの醤油は、「甘口」と「辛口」という一番わかりやすい表記だった。

今でもカツオ一本釣りの漁師は、宮崎から自分たちの醤油を持ってくる。東北の醤油は辛くてしょうがないということを言っている。逆に、油津で会った、山形の酒田から婿に来たという人は、私が気仙沼から来たと言ったらそばに来て、「川島さん聞いて下さい。ここのお煮染めは砂糖がふいているのですよ」と泣きつかれた。これは酒と焼酎の文化の違いとも関わることで、一般的に西日本は甘口で、東日本は辛口だ。味覚や伝統料理に限らず、一般的に、地方の伝統や文化は押しつけたり普遍化したりすることは難しい。普遍化すれば伝統的でも地方的でもなくなるので、そのような矛盾を抱え込んだまま伝えていくことがむしろ大事ではないか。

 自分たちの文化を伝えていくとともに、相手の文化も認めていくような相対的なものの見方が必要で、太平楽なお国自慢だけでは伝統文化を客観的に伝えていくことは無理であろうと思う。地方の博物館や美術館は、何が伝統的で、何がそうでないか。新しい伝統はどうつくられてきたかということを、客観的に伝えていく使命があると思う。掛け魚というものがあるが、あれは正月の魚の供養ではなく、正月三が日煮炊きをしてはいけないので、正月中に食べる魚だ。そういった意味を伝えていくことも美術館・博物館に課せられていることだ。視覚・聴覚・身体感覚が総動員されるような方向で、それらを伝えていかなければならないと思う。むしろ視覚・聴覚という近代的な分断された発想はやめて、トータルな人間の営みを伝えていかなければならないと考えている。もう少し具体的な提案は、この後のディスカッションの中で話したい。

昆野:視聴覚を生かした展示をしている美術館・博物館の事例があれば、教えて頂きたい。

川島:すぐに思いつくところは無いが、国立民族博物館ともう一つ、歴史民俗博物館などがある。両国の江戸   

東京博物館などは、一日いても飽きることがないくらい面白い。

昆野:これで4人の話・主張を聞くことができた。これからはパネラーとしての話を聞いていきたい。まず、宮原さんは3人の話を聞いて思ったことなどを聞かせてもらいたい。

宮原:最初に海外の事例と言うことで紹介させてもらった。少しテーマからはずれたかなと言う気もしたが、私が話したかったのは、博物館・美術館のスタートは西洋で、その民族が長い時間かけて培ってきたものを大切に見るという姿勢、それを理解しようとすること、川島さんも話していたが、異文化の部分もきちんと理解しようとする姿勢を持つ必要があるということだ。この点では、まだまだ日本の価値観だけで観覧するということが、観光の場面でもグループで行ったりすると出てしまう。私自身も現地の人から厳しい指摘をされ、客との間で苦い思いもした。なんとか皆さんが「郷に入っては郷に従え」で、互いに地域を知る方法を身に付けていった方がいいと思う。

 美術館・博物館は地域の概要を知るための施設であるべきだと思う。菅原さんは初めて気仙沼にきた人を連れてきて気仙沼を伝えるといっていた。よそから来た人に、気仙沼はどんな地域であるかを表現できているということは非常に大切だ。美術館に観光客が来るということも大切だが、世界のどこでも、地域性、培ってきた歴史をしっかり捉えて展示しているところに沢山の客が来ているように思う。気仙沼について話すと、気仙沼の地域性である漁港や港町という部分を大切にした展示が出来ないものかと思う。最初に来たときは、リアス・アーク美術館とリアス・シャークミュージアムの区別が付かなかった。名前から海に近い美術館というイメージがあり、きっと海に近い方が美術館と思っていたら、着いた場所は山だったのであれ?と思った。初めて館内に入って思ったのは、気仙沼らしさがないということで、常設展も見たがそれがまだ弱い感じがした。もっと気仙沼の漁港という状況、気仙沼にしかないものをきちんと展示できると、いろいろな人が来てくれる。ここに来てみて、学んだということが出来るのではと思う。

10年くらい前に、空き店舗を利用して中国の舟山の漁民画ギャラリーを作っていたが、その後どうなりましたかと聞いたら、今は閉じてしまって、エースポートに展示されているとのこと。あれは歴史的な由来と地域間の交流があって絵画の展示が始まったという非常にユニークなものだったが、当初の想いが立ち消えの状態になっているとしたら大変残念だ。今は観光の時代で、各国の人が世界へ出かけている。中国の人も日本を訪れている。その人達が、自分の国と関わりのあるもの、ことを異国の地で発見できる。そして、それが大切にされていることが分かったら、とても嬉しいと思うことだろう。この美術館でしっかり保存・展示したり、もっといろいろなところでの展示の機会を増やしたり、市民の中にもまだ知らない人もいると思うので広く紹介していく。小さな作業だが、地域に何があるかということを大切にする展示の方向性も重要だ。

昆野:結城さん、これまでの皆さんの話を聞いて、付け加えたいところがあれば

結城:川島さんの話を聞いて感じたのだが、矛盾の中で伝えていくというのは大事だなと思った。旧宮崎町での文化祭一年目は、皆は集めているのは郷土料理だと思っていた。展示に値するのは郷土料理と思っていて、「それは出来ない」と引く人がいた。一年目に並んだ800種類を見たら、おばあちゃんたちは自信を付け、若いお母さんたちを圧倒した。また、若いお母さんがハンバーグを出していいかと聞いたら、「ハンバーグは宮崎の食文化ではない」と一喝された。その若いお母さんは嫁にきて15年。野菜を30種類ぐらい作れるようになったが夫は野菜が嫌い。週末には子どもたちとファミレスに行ってハンバーグを食べる。悔しいからいろんな野菜をみじん切りにしてハンバーグを作ったら「ファミレスより美味しい」と喜んで食べたのが嬉しかったというエピソードを話したら、おばあちゃんたちは歓迎した。こんなふうにして参加者・出品者が増えていったことで地域興しにつながり、今も続いている。

 らしさだけが地域ではない。人は郷土料理だけを食べているわけではない。当たり前が持つ世界が、私の考える「らしさ」だ。コーヒーの瓶に入った梅干し、みそが美味しい。限られた条件の中で美味しくつくるのが食文化だ。レシピは今3,800種類になった。条件は、一品だけ宮崎のものを使うのがルール。町のほとんどの人が関わり、当事者になった。

 多くの市町民の中に「この美術館の当事者だ」という意識が生れ、さらに美術館側にそれをしっかり受け止めるものがないと、権威とか、すっきりしたものとか、郷土色とかに救いを求める結果になる。気仙沼は「何でも有り」のまちだ。矛盾に満ちた60,000人の町をもっと深く受け止めていくことが、このまちの美術館の使命ではないか。あれはダメ、これはダメといわないことだ。

 高橋さんは、私の家に1ケ月宿泊していた時、いつも「悪いな」と話していた。後日、お礼に水ダコが生きたまま届いて、妻は仰天した。初めて見た生きたタコは一生忘れないだろう。そのために高橋さんは朝早く手配をしたはずだ。その配慮に、気仙沼からのお礼だという印象を受けた。

菅原:気仙沼は本当に何でも有りの町。60,000人もいるので北上町や宮崎町とは違うまちの形態を持っている。あれもあり、これもありで、料理も食も、店もそう。とびきりすごいところばかりではないが、和洋中と揃っていて、おいしいところはある。いろいろなものが点在している。食べ手がもっと広く評価しないといけない。 ただ、気仙沼の飲食店では、美味しく食べさせる努力がもう少し必要だ。少し手を加える。店内が汚れていたり、サービスのマナーが行き届いていなかったら、美味しいとは思えない。サービスが行き届き、清潔感があったら、もっとおいしく食べられる。

 ここでの展示も、決して晴れの日のものばかりが対象になるのではない。食文化は一番ハードルが低い、全ての人に関わること。本来、あまり難しい論理で行ってはいけないものだと思う。この美術館でやっているものの中には、もっと日常的に、見せ方にテーマ性を持たせてやっていくと、良いまちづくりの発信点になるだろうと思うものが多い。

川島:地域に何があるのかを展示で示すことでユニークな博物館を目指すべきだ。一つには漁業・漁労文化がある。昭和40年ぐらいに、社会学者の竹内利美が「鼎の脚」という気仙沼湾の歴史を綴った名文を残した。その中で、「気仙沼の漁業史を調べるということは日本の漁業史の縮図を見ることだ」と言っている。この美術館は、ここに来れば三陸の漁業史から漁業に関する情報の全てが分かるというくらいの収集をしなければならないと思っている。カツオ漁を調べて高知や三重を歩いている時、「宮城から来た」というと、すぐに「気仙沼か」と問い返される。「気仙沼」は実にメジャーに伝えられている。いろいろな情報が伝わっていて、1997年の市議選は誰がでるかと言うことを、大分県臼杵市で聞かせられてびっくりした。

 気仙沼は太平洋沿岸の多くの水産・漁業都市と交流がある。この気仙沼の特性を生かして、三陸沿岸は勿論のこと、太平洋沿岸の漁業に関する資料を集めるということをやって頂ければと思う。

昆野:会場の方で、ご意見があればお願いしたい。

参加者:今度つくる魚市場に、遠洋漁業史が分かる空間を作って頂けるよう運動してほしい。一番気仙沼で保存しなければならない遠洋漁業史が空白のままだ。

参加者:二日間聞いてみて、日本の文明論が議論されていると思う。いろんな問題提起がされていると思う。西洋対日本ということかも知れない、専門的なことと通俗的なものの対立かも知れない。昨日の論点は「美術館」で、今日は「博物館」だったと思う。美術館と博物館の両方あることが大切だと思う。東北在住作家を紹介しているシリーズは財産だと思う。高橋純夫さんを美術館でどう生かしていけばいいかというのは、大きなテーマであると思う。

結城:私はもっと単純に考える。ここがどういう場になっていけばいいかということだが、人ともの、食物などの関係をバラバラでなく、つなぎ合わせていくことだ。美術館・博物館は内側だけでなく、外側ともつながりを持たなければならない。凧を館内で展示しようとすると、どう頑張っても額に入れるしかない。揚げてみてこそ魅力が良く分かる。高橋さんは、「自分で揚げてみなさい」と、いつも云っていた。子どもは凧糸の手応えで風の力を感じる。頭だけではだめだ、水も風も光も土も同じことだ。高橋さんは、環境のことを感じられる、そんな男だった。美術館を運営する者は予算が無いとがっかりして、あったらホッとしてということではなく、例え赤字であっても、借金をしても、ここに人が来ることが、次の世代の人たちにつながっていくのであれば良いと思うべきだ。次につながっていく借金なら、良いのだと思う。もっと先に向かって物事を考える、その中には食や民俗も、何でも有る。次につながるトライアルを、勇気を持って大胆にすることが大切だということを、私は高橋さんから教わった。

昆野:会場からの意見に、学芸員から何か話すことがあればお願いしたい。

山内:3年前、常設展を今の「食」という切り口で展示替えした。何故そうしたかというと、気仙沼といえば、対外的には食が前面に出てくることが多い。誇りを持って世界に発信できるものは食だと考えた。食文化というが、食は生活の基礎。基礎が安定していてこそ生活ができ、町ができ、社会ができて、文化というものがつくられてきたと思う。そして本来は、芸術だけが遊離して、離れて存在しているわけではなく、優先順位でいったら、衣・食・住のすぐ次に芸術、という位の考え方をするべきだと私は思っている。

芸術とは、人間がどう生きてきたか、どう生きていくかということ以外の何ものでもない。そんなことは当たり前のことなのだが、それが今成立していない。美術館は、世界にはいろいろな価値観、いろいろなものの考え方があり、考えること、感じることは一人一人違い、それが複雑に絡み合って社会が成り立っているということを学ぶ場である。そういうことを、是非多くの人に考えて欲しいし、そういう土地になって欲しい。気仙沼は漁業の町で、外国人もたくさんいる。ある夜、ファミレスを覗いたら、半分以上が外国人で驚いた。気仙沼はいろいろ人が出入りしている。だからこそ、この町の文化のベースをきちんと作っていて欲しいと強く思う。

館の用途指定である「博物館相当施設」という言い方は、博物館みたいなものということではなく、博物館法の法律上の表現。この美術館が、何故、相当施設になっているかというと、この美術館はコレクションを持たないということになっている。美術館を作る時、普通は、研究し、保存し、展示によって社会に還元すべき資料があったうえで始まる。しかし、ここでは、コレクションは持たないという条例を作ったうえで、美術館を建設した。本来あり得ない作られ方をしたという歴史がある。他の条件は揃っているが、このために博物館相当施設ということになっている。単純にそれだけのことだ。宮城県から施設を移譲されたことで、今まで美術館だったものを博物館相当施設へとランクを下げたわけではない。そのことを新聞などがきちんと説明していない。

 また、一年前の新聞では、この美術館は県の財政難の元凶で不要な施設だった、という表現をされた。あってはならない表現だ。そんな側面ばかりが出て、本当にこの美術館は駄目なのじゃないかという見られ方を地元の人にまでされたら、もう終わりだと思った。住民が自分たちの施設に誇りを持てないとすれば非常に残念なことだ。親が自分の産んだ子どもに誇りを持てないのと同じこと。地域・地元の住民には、この施設を支えていかなければならない義務があるはず。

昆野:では、最後に言っておきたいことがあれば。

菅原:これだけは言って帰りたいと思って、今日出席した。先ほど、外来者をここに連れてきて説明をするとスムーズに行くという話をしたが、私はここに何度も来て、ジェノバに行くための勉強もした。この美術館の価値、利用の仕方が分かったからだ。一般には、観光関係の人でも利用価値を分かっていない。館側の知らせる努力も必要だ。他の館との連携、観光資源との連携も必要だ。観光関係の人も、この館の利用の仕方、活かし方が分かれば、もっと面白くなると思う。

 具体的には、暮らしと命の耀き、我々の生き様を発信する場という機能も持っていく必要がある。例えば、方舟祭の深みを増して、食との関連・接点を持たせるともっと面白くなる。中で見せているものを外で食べられるとか、実際は難しいかも知れないが、そんな接点も必要だ。

 次に、ここの大きな財産の一つに、学芸員という人材がある。気仙沼の内湾には、山内さんの力を借りた観光案内パネルが建っている。折角、芸術的なノウハウを持っている人がいるのだから、うまく地域のまちづくりに活用すべきだ。教育の場との接点も必要だ。教室では出来ないこと、学校の先生が教えてくれないことが、ここでは体験できるということも大切だ。

 最後に、運営についてだが、きちんとした基本方針が今あるのか、疑問に思っている。それをしっかり検討して決定していく、美術館とはどんなところか、今後どうしていくのかということを考える機関を設けて、そこで出た方針をもとに、館内の人たちが企画・イベントを考えて、方向性を誤らないような仕組みも作っていかないと、うまく回っていかないと思う。そういう機関と仕組み作りが、何よりも必要だ。

昆野:大変貴重なご意見を、数多くいただくことができた。この施設は、県の広域圏活性化プロジェクトから生れたものである。その意味では、美術館・博物館という範疇に留まらず、地域振興の総合拠点、中核センターということも目標にできる施設だと思う。今後ともの、ご指導とご協力をお願いしたいと思う。

これをもって本日の10周年記念フォーラム・第2部を終了する。

 

総括 まとめ

 2部構成で2日間に渡って開催されたフォーラムは、美術館に関心を抱いている参加者と基調提案を行っていただいた4名の講師、及び3名のパネリストの協力によって有意義なものとなった。

1部では現在日本の博物館、美術館が置かれている状況を歴史的に検証しながら「根本的な問題」を明かにし、それに対して今後どの様に意識改革を行ってゆくべきなのかということが討議された。文化的な成熟をもたらす努力は美術館が単独で行うことではなく、社会が足並みをそろえることが大切である。文化に関することを他人任せにしない姿勢が日本人一人一人によって今後強く自覚されなければならないということが確認された。

 2部では観光面からの利用価値、地域の文化活動との連携、当館の特徴でもある民俗資料展示の充実、住民参加による活性化などについて討議された。従来の美術館、博物館の一般的なイメージを変化させ、より開かれた文化施設にしてゆく上で必要なアプローチとしてこれらの課題は現実的に検討してゆかなければならないものである。しかしこの点に関しても美術館の持ち主である住民の積極性が重要であることが確認された。

リアス・アーク美術館開館10周年記念フォーラム  2日間の内容を総合的に整理すると以下のような課題が見えてくる。

 「まだ歴史の浅い日本の博物館(美術館)はその本質的な存在意義を明確にできていない。それは運営する側、利用する側双方の問題である。社会における博物館の必要性をあらためて考え、今後の方向性を明確にしてゆく必要がある。

 文化という貨幣価値による表現が難しい財産に対して、深い理解と尊敬の念を持てる社会的な背景をあらゆる角度から築きあげてゆくことが今後の重要な課題である。」

このフォーラムの記録が、何らかの形で今後、博物館、美術館が抱える問題解決の糸口になることができれば幸いである。

リアス・アーク美術館

 
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