作家について:
  千葉和男は1948年岩手県前沢町生まれ、多摩美術大学を卒業後、横浜市で12年間、中学校の美術教師を務めました。そして1983年に退職、自分が生きてきた日本を外側から見てみたいという欲求に駆られ、当初は3年の予定で渡欧しました。
  千葉は近代化に伴い急速に変化してゆく日本の農村風景の中で少年時代を過ごしました。自身も農業に携わりながらその風景を眺めていましたが、漠然とした違和感を覚えずにはいられなかったといいます。当時を振り返り「田園が工業地帯にしか見えなかった。」と語っています。農作ではなく農業。サラリーマンのように米を作る人の姿。土を相手にしながら土と共に生きていない。そんな印象を持ったのです。
  ふるさとで感じたこのような感覚はやがて日本全体に対する懐疑心に変わってゆきました。美術もまた例外ではなく、当時教員だった千葉にとって日本の美術、作家、美術環境全てが疑わしいものに見えたといいます。大学で絵画科に属し油彩を専攻してきた千葉は、「本物の空気を感じてみたい」と思うようになります。「美術で人が生きられるのか?」日本で抱いたこの疑問に西洋はどう答えたのでしょう。
  千葉は1983年にスペイン、マドリードに渡り滞在、約1年間シルクロ・デ・ベジャスアルテス・デ・マドリード(王立学院)で美術を学び、翌年から北スペインのアストゥーリアス地方のジャネスに居を構え作品の制作、発表活動を始めました。「作家」なるものに懐疑的だった千葉は、当然作家になるためにスペインに渡ったわけで

はなかったのです。しかしこの国は千葉が日本で抱いていた疑問をあっさり素通りしてしまいます。スペインではピントール(画家)は当然絵を描いて生きるものだったのです。人は平気で当たり前のように美術で生きており、誰もそのことに疑問を抱くものもいませんでした。絵を描くことに説明など必要としない社会が千葉を迎え入れたのです。しかしそのような文化的差異は日本人千葉にとって救いにはなりませんでした。「日本人の生き方?文化?」あらためて日本の現実を突きつけられたのです。
千葉は結局1993年まで約11年間スペインで生活しました。11年の滞在はもちろん千葉にとって予定外でしたが、あまりにも充実した日々に時の経つのを忘れるほどだったのです。それほどスペインは絵描きにとって住み良く、魅力的な場所だったのでしょう。千葉はスペイン文化が作り上げた様々なモチーフに「在る」という確かさを感じ、ひたすら描き続けました。
  帰国した千葉は2005年末まで日本で作家として活動しましたが、現在はスペインに帰っています。「作家」という概念は結局日本では成立しなかったそうです。二つの国で同じ生活をしようとした千葉が、日本で限界を感じてしまったことは非常に残念な結果です。日本ではまだまだ「美術家」の社会的位置づけが明確になっていません。再び千葉が帰国することがあるのかどうか分かりません。しかし今度帰国するまでに美術をとりまく日本の社会状況を少しでも改善したいものです。

スペインについて:
  ヨーロッパ南西部イベリア半島の約5分の4を占める立憲君主国。フランス、ポルトガルと国境を接し、北は大西洋に、南東は地中海に面する。主要言語はスペイン語、カタルーニャ語、ガリシア語、バスク語。通貨単位はペセタ。ピレネー山脈を越えたらアフリカと言われるほど気候風土はアフリカに似ている。ジブラルタル海峡を挟みモロッコと接するアフリカとヨーロッパの文化的融合地帯である。地理的に民族、文化のるつぼであり、イベリア人、ケルト人、バスク人、フェニキア人、ギリシャ人、ローマ人などが混血している。10世紀前後には800年ものイスラム支配と500年に及ぶローマの支配を経験し、現在はカトリックを中心とするキリスト教圏であるが、文化的にはイスラムの影響が非常に強い。スペインで出会うものは複雑多岐な文化の重層と木のない広大なメセタ(卓状地)、どっしりとした空、そしてそこに生きる生命感あふれる人々だ。国土のほとんどが乾燥地帯で、ごつごつした岩山と見渡す限り木の無い、うねっただだっ広い大地、日本とは明らかに違う空が広がる。草木のまばらな地面は太陽光を反射し独特な色彩を放つ。そんな空間にイスラム、ゴシック、ロマネスク、といった歴史が刻まれた石の造形が風化という化粧を施され起立している。日本とはまったく違う文化を持った国である。