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たゆたう時T その夕暮れを知っていたかのように 秋の積雲は 不定形な流れに まかせている いつからだったのだろうか 僕はさっき気がついたのに そんなこと… と言わんばかりの 素知らぬ振りをして 風も雲も 光を閉じてゆく。 |
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たゆたう時U 風の中流を 見つめる眼差しに 虚ろひさえもが立ち止まって、 川面に触れる その影に ゆれる木立さえも 耳を傾ける 彼方の山の驕れる語りは 内ポケットに 忍ばせたままにして…。 |
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作家と作品について・コミュニケーション〜鑑賞とは〜: 佐藤健吾エリオは1968年ブラジル・サンパウロ生まれ、1970年に帰国、宮城県で暮らし、1993年に東京芸術大学大学院美術研究科を修了しています。佐藤は日常的な風景を中心に、油彩ならではの魅力的なタッチを見せる非常に優れた画家です。 佐藤の作品には多くの場合、タイトルとは別に詩が添えられています。詩と映像(絵画)を組み合わせて展示することで、不確定なイメージをより明確にしようとしているのです。しかしそれは作品を限定する行為ではなく、相乗効果としての広がりを期待する手法であり、より多様なコミュニケーションを鑑賞者との間に求めているのです。 私たちは世界との関わりのなかで常に臆病であり、また同時に大きな希望を感じながら生きています。それは人間が高度な社会性を持った遥か遠い昔からずっとそうなのです。臆病な我々が最も恐れていることは、自分が他者に理解されず孤独になることでしょう。また同時に大きな期待を持って接触した他者に失望させられ、裏切られることも恐れています。私たちは知らず知らずのうちに、常にこの恐怖にオブラートをまとわせ、回避しながら生きています。強い自己防衛心が他者とのコミュニケーションを阻害しているのです。この恐怖は愛への恐怖であり、また渇望でもあります。しかし深く無防備に人を愛し、語り合って初めて心は通い合うものではないでしょうか。 私たちは言語を用いて意思疎通しています。言語とは言葉だけを示すものではありません。人が感じ、何らかの状態で表現すれば、絵画も詩も小説もダンスも音楽も全て言語なのです。ただそれでコミュニケーションするためには表現者だけではなく、受け手もまた表現者と同様の経験や感覚を持っている必要があります。 作品を鑑賞するということは、単に作家が表現している意味を学術的に理解することとは違います。表現者と同じ気持ちになり、感覚を共有し、自分自身も表現者にならなければ本当の意味で作品や作家とコミュニケーションすることはできないのです。自分の心を開き、相手を「理解したい」と願いながら深く付き合う姿勢が大切です。他者の感覚が自分の中に入ってくることを恐れず、真正面から世界と付き合ってゆくこと。それこそが美術作品の鑑賞を通して最も学んでほしいことなのです。 |
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言葉と絵の関係について: 現在、私たちは携帯電話、パソコンなどの普及によって個人単位で常に世界と繋がっています。情報の末端である私たちは機械を通し見ず知らずの人物と言葉のやりとりをすることも可能です。しかしその言葉には深さがありません。つまり言葉の背景にある空間までは伝えられないのです。人間同士がコミュニケーションを図る為には単に記号的な文字や言葉を使うだけでは不十分なのです。 大切なのは記号だけではなく記号化される前の心であり、言葉以前に立ち現れてくるゆらぎ、ニュアンスのようなものなのです。極端な言い方をすれば、お互いに手を取り見つめあうだけでも意思の疎通は可能です。というよりは、言葉では表現できないことがかえって分り合える最良の方法かもしれません。 文字情報によって会話をするメールシステムは知らず知らずの内に私たちに大きな不安を抱えさせているのかもしれません。私たちの関心は無意識のうちに目の前に見える文字から離れ、文字を打った人物の表情や体温、周辺の空間へと向けられます。しかしそれが見えなければ、我々は決して言葉を信じることができないのです。これを補助するため、いわゆる絵文字や写真を多用しメールをやり取りするのです。絵と文字を組み合わせる方法は私たちが情報を正しく理解するうえで最も優れた方法かもしれません。漫画はその代表といえるでしょう。 |