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あとがき 一人の人間が生まれてから死ぬまでに出会う人間の数はどのくらいなのだろう。例えばごく一般的な人の一生を例に考えてみる。 ある家庭に生まれ、家族と出会う。親戚と出会う。親戚は10年に一度顔を合わせるくらいかもしれない。家の外で遊ぶようになり同世代の近所の友達ができる。幼稚園に入り数十人の新しい友達ができる。小学校、中学校、高校と進む中で掛け算式に出会いが広がる。高校を卒業するころには沢山の地元の友人ができていることだろう。しかしそれでも、冷静に考えてみればわずか数十人としか関係を作れていないかもしれない。しかも同世代で同じ地域に暮らす人間が大半であろう。まだまだ世界は広がりを持っていない。 高校を卒業し、縁のなかった土地の大学に進学したとする。そこには全国から集まってきたいろいろな人がいるかもしれない。また就職したとすると、全く世代の違う人たちの中で生活しなければならなくなる。そこまでいってもやはり「出会い」と呼べるほどの関係を築ける人間の数はそれほど増えない。結果的に、死ぬまでに出会える人間の数は百人にも満たないかもしれない。しかもその百人が気の合う人ばかりで、世代も近いとすれば、一生かけて得られる価値観は非常に狭く広がりのないものになってしまうことだろう。 この世界には様々な文化があり、また膨大な歴史がある。そしてそれを拠り所とする沢山の民族が暮らしている。日本という国一つの中でも様々な地域文化があり、言葉も少しずつ違っている。人類はそのような多様な価値観の中でお互いを尊重し、助け合いながら生きてゆかなければならない。そのためには自分を理解し、相手を理解し、お互いにわかりあいたいという意識を持つ必要がある。 普通に暮らしていればごく限られた価値観の中だけで一生を送ることになる我々が、世界の様々な価値観を持つ人々とお互いを理解しあうことは簡単なことではない。自分自身のことを考えてみれば分かること。たった10年生まれた年が違うだけでも私たちの価値観は微妙にずれ、お互いを理解しあうことは難しいのだから。 しかし人間はそのような中でも、長い時間をかけ、互いの価値観を共有する術を見出し、これまで生きてきた。その術の一つが美術なのである。他の生物とちがい、人は言葉によって互いの考えを理解しあうことができる。また言葉が通じなくても理解しあえる方法もある。例えば「音楽は国境を越える」と言われる。人類には少ないながらも共通の価値観というものあり、その点に関しては言葉も文化の違いも障害にはならないが、逆に特定の文化における価値観が他の文化において理解しがたい場合もあり、そのような価値観のずれが人々を争いへと誘う。人間はそのように争いながら少しずつ価値観のずれを埋めてきたのだが、その記録ともいうべき人類の歴史、時の記憶を目に見える形にし、次の世代に伝えてきたものの一つが芸術であり美術なのである。 美術作品には様々な時代の多様な価値観が表現されている。我々は物理的に経験できない過去の出来事も美術作品を通して疑似体験することができる。また、実在しない事柄、例えば、人間の内面、精神世界を見ることも可能である。美術作品は、一生かけても実体験すること、出会うことができない価値観を我々に提供してくれるのである。そういうものを知的財産と呼ぶ。 「人間はどのようにできているのか?」 我々人類が追求してきた命題である。医学、科学、心理学、哲学、宗教学、芸術、etc…。様々な場でこの命題を解くために人類は絶え間なく自問自答を繰り返し、その成果を蓄積してきた。その蓄積は、手を伸ばせば誰にでも届く場所に書物や芸術作品として凝縮されているのである。 初めの問題に戻るが、人間が生まれてから死ぬまでに出会える価値観は非常に限られている。しかし書物や芸術作品として蓄積された人類の知的財産、価値観の集積を紐解いてゆけば、「時空間を越えた出会い」が得られるのである。人間は肉体でもあり、心でもある。肉体は肉であり骨であり血液である。エネルギーを補給し、代謝を繰り返し維持される体。心も同じようにエネルギーの補給が必要であり、代謝が必要なのである。この一冊の冊子には複数の作家と、作品を紹介している。非常に限られたものでしかないが、それでも多種多様な価値観を我々に提示してくれるものになったのではないかと思う。一つの作品から人類の歴史や文化が連鎖的に見え、広がってゆく喜びをより多くの人に知ってもらえれば幸いである。 著者 |