![]() 「ものを見るということ」 石はなぜ石か。ネコはなぜネコか。 普段当たり前に思っていることがなぜそうなのかを考えることが絵をかくこと、ものを作ることの基本です。 私たちは特別な能力がなくても「ジャガイモ」と「石のジャガイモ」と「粘土のジャガイモ」を見分けることができます。それなのになぜ描き分けることは難しいのでしょう? 目の前を走り抜けるネコを一瞬でネコと判断できるのに、ネコを正確に描けないのはなぜなのでしょう? |
|
「ものを見る仕組みについて」 私たちは普段どのようにものを見ているでしょう? 実は私たちは脳でものを見ています。目は光を感じる感覚器でしかありません。目に映る情報は頭の中で様々に解釈されます。それが何であるか確認する作業が脳によって一瞬で行われているのです。 |
|
例えば私たちが普段、よその土地に行ってどこから来たのか尋ねられたなら「宮城県の気仙沼市から来ました!」と答えます。ところが関西などでは宮城県が日本のどこにあるか良く分からない人も少なくないですから、「東北ですか?」と聞き返されたりします。そんな時は「仙台は知っていますか?」などと聞いてみます。すると「あぁ!仙台ですね!、知ってます!」というような感じになるものです。 不思議なことに気仙沼がどこにあるかは相変わらず分からないのに「その辺だろう」という感じで納得されてしまいます。実は私たちがものを見るときにも脳は同じような仕組みで情報処理を行っているのです。 |
| 通常ものを見るということは、あらかじめ頭に入っている簡単な記憶、例えるなら地図のようなものと、目に映るものを照らし合わせ、見ているものが何なのかを確認する行為なのですが、その地図は非常に大雑把なもので「東北の仙台近辺」程度の認識までしかできません。それ以上の細かい限定は日常生活をする上で必要とされていないのです。 |
|
地名や県名を言われ、次の瞬間頭の中に詳細な住宅地図を思い浮かべる人は普通いません。簡単に日本地図を思い浮かべ、あとは漠然と認識します。普段私たちはそのようにものを見ています。 3種類のジャガイモの例についても同じ説明を当てはめることができます。形の上ではジャガイモですから、まず「食べ物地方、野菜県ジャガイモ市」を確認するための地図が用意されます。この段階で認識された3種類に大きな違いはありません。普通ジャガイモは粘土や石ではありませんから、ジャガイモの形をしていれば「仙台も気仙沼も同じ宮城県でしょ」という程度の漠然とした定義の中で認識されてしまいます。 しかし見た瞬間に粘土は粘土、石は石、それぞれ作り物のジャガイモであることは判断できていることも事実です。これは、頭の中でいったん「食べ物地方、野菜県ジャガイモ市偽物町」のような別の地図が開かれるためです。ところがはじめの段階で「食べ物地方」という定義を優先してしまっていますから、本物、偽物の区別さえつけば「偽物の要素」である石や粘土の情報は必要とされなくなるのです。普段の暮らしで重要なことは、食べられるイモか食べられないイモかということですから。 |
|
言葉では「石のジャガイモ」「粘土のジャガイモ」と表現していても、「偽物町」と定義してしまった地図では石にたどり着くことはできません。このような日常的なものの見方では、石の情報、粘土の情報は手に入らないのです。石らしさや粘土らしさを描くことができないのは当然のことです。 たとえジャガイモの形をしていても石でできているなら「偽物町」ではなく「石町」と定義しなければなりません。そして「石町」に入ったら、番地、番号を確認し、まっすぐに家までたどり着いてさらにドアをノックし、「久しぶりです!石さん、最近どうですか?」という会話をし、さらに初めて出会った頃の思い出話などしながら、石さんのことを良く思い出さなければ石を見たことにはならないのです。「石さん、あなた食べ物じゃないでしょう?」なんて変な質問をしてはいけません。きちんと石と向き合って石がなぜ石なのか本質を見極めること。そこまでしてやっと石のジャガイモを表現することができるようになるのです。表面だけで間違った地図を使ってしまえば絵を描くことはできません。 |
|
絵を描く上で最も重要なことは物をよく見ること。しかし見るということはただ何も考えず普段通り見ればよいということとは違います。絵を描くためには普段とはちがう、もっと詳細な記憶の地図を広げなければならないのです。 最後まで記憶の地図をたどって、初めて自分がものを見た時にどんな特徴を地図に書きこんだのか、ものを見るたびに根本から思い出してください。そうすればものが良く見えるようになるはずです。 |